Scribble at 2018-09-10 10:47:51 Last modified: 2022-09-28 11:26:19
図書館、つまりは無料で誰もがアクセスできる施設を維持することには、恐らく昔の大学関係者が牧歌的かつ郷愁をこめて語るサロン的というか「知のインターセクション」(笑)みたいな役割を期待できるのかもしれないが、まず第一に社会保障・社会福祉の一環でもあるという自覚は行政に失ってもらいたくないし、僕ら有権者も失わない方がいいと思う。
何度も言っておくが、電子書籍なんて、電気がなければ一文字すら表示できない。そして、これもそろそろ真面目に社会学者や経済学者が調査すべきだと思うが、電子データの永続性なんて実は嘘なんだよね。データベースを維持するには、紙の本と同じくらいコストがかかるんだよ。そして、電子書籍をふんだんに利用できるようになった学術研究者が個々のパフォーマンスとして特筆するべき生産性をもたらしているのかということも、ちゃんと調べた方がいい。言っておくが、電子書籍になったからといって論文を読む速さが倍になる人間なんていない。そして、自宅か大学の研究室でしか読めないものを電車やバスの中で読めるようになったからといって、それで学術的に何かのアドバンテージになるというのは、全くの幻想なのである。たいていの有能な研究者というものは、読書しながらものを考えるわけではないのだ。寧ろ、紙だろうと電子データだろうと、そんなものを必要としていない沈思黙考がなければ独創的なアイデアなど生まれない。読書による「情報処理」だけから自動的に何かを一歩でも押し進めるアイデア、なかんずくノベール賞に匹敵するアイデアが生まれるかのごとき思い込みで電子書籍と何らかの成果とを短絡的に結びつけるのは、もういい加減にしてもらいたい。世の中の大多数の無能は、電子書籍でデータを何ギガバイトもっていようと、一日に論文を何十本と「処理」できようと、何の成果も上げられないのだ。そして、それは紙の媒体についても昔から言えたことなのである。多読家や蔵書家で知られた、有能な人物がどれほどいただろうか。それらの人々は、要するに多読家や蔵書家としてしか知られていまい。
図書館がもつ役割は、したがって無料で本が読めるとか低コストでデータを提供できるという表面的なところにはない。社会的なリソースに「誰でも」アクセスできるということの方にこそあるというのが、この記事のポイントだ。そして、電子書籍のデバイスは UI としてまず誰でも使いやすいものではないし、殆どの図書館では電子書籍を利用するためのデバイスまでは貸し出していない。つまり、電子書籍のライブラリというのは、実はリーダを買って扱えるという、最低でも二つの点で情報アクセスに差別(と言うのがあからさま過ぎるなら、あの懐かしき「デジタルデバイド」という言葉を使ってもいいが)を持ち込んでいる。そして、先にも言ったように、この差というものは、これを維持しなければ図書館の運用に酷くコストがかかるのかと言えば、実はデジタルデータの運用に切り替えても大して変わらないのである。
もちろん、デジタルデータには利点もある。デジタルデータは劣化なしに幾らでもコピーできるし、一つのリソースへ同時に何千人がアクセスできるし、そういうことをどれほどやってもデジタルデータが「破損」したり「文字が擦れる」ことなどない。1,000年が経過してもデータは何の欠落もなしに維持できるだろう(しかし、そのためには素人が気楽に予想するよりも大きなコストがかかるという話は既に書いた)。そして、このような利点は公共図書館をどんどん廃止するための理由にもなる。なぜなら、電子データのやりとりだけで済むのであれば、国立国会図書館が一元的にデータの管理と貸し出しを管理すればよく、国民の1割ていどが1つの書籍データへと一斉にアクセスしてもいいくらいのネットワークやサーバ群を用意しておけば、地方の公共図書館など一つも無くていいという話になりかねないからだ。すると、地方の公共図書館「だった場所」に残るのは、或る地域では、素人まがいのバイト司書が店員を兼ねる田舎スタバだけということになる。