Scribble at 2021-10-03 11:17:56 Last modified: 2021-10-06 15:38:47

「今でも石牟礼氏は神格化されています。はっきり言えば女性だからですし、左派が発言力を持っていた時代のスターだったので、もう一度、光を当てたい人がいるのだと思います。フェニズムの文脈にうまく収まることも、彼女の神格化に寄与したと考えています。」(※ 小島剛一氏自身の文章ではなく、見知らぬ人物のコメントを引用したものらしい)

石牟礼道子を崇拝する投稿者 : アンケートの纏め

小島剛一という人物については、だいぶ前にも書いたとおり『トルコのもう一つの顔』(中公新書)という著作で興味を持って、その続編も通読したものだった。しかし、彼が運営しているというブログを見つけて記事を眺めてきたのだが、著作から受ける人物像というか印象とは、かなり違っていた。零細工場の金型に押し嵌めて成形したような権威主義や学歴主義、まるで博士号を授与されていない者が学問に携わる資格などないかのような発言が記事に散見される。僕が考古学で敬愛する森浩一先生とはまるで正反対の人物に思えた。そして、上記のようなコメントをわざわざ引用してバラ撒いているところを見ると(ご自身は日本語の文法の本まで出版しているのだから、当然にもご理解の筈だが)、この人物は要するに「左派」とか「ファミニズム」なるものに敵愾心を抱いているような人物に好意的な、したがってご自身が暮らしているフランスでは往々にして蔑まれるようなイデオロギーの持ち主なのだと推察される。

この、石牟礼道子氏について繰り返している色々な批評を眺めていても感じるのだが、ともかく最初から最後まで人物攻撃ばかりしている。では、小島剛一という人物は CSR やら公害やら環境政策についてはどうお考えなのか。詳しいらしいフランスではどういう事例があって、フランス人で水俣病を知っている人はいるのかとか、そういう議論は何もない。ネトウヨと同じで、誰かが急に有名になったり、政府から補助金をもらったり、あるいは博士号もないのに本を出版していることが許せないだけなのではないのか。

まったく、こういう〈冷静で温和な文体を装ったヘイト〉に、日本語の文法書まで出版している人間が嬉々として与したり文章を引用するなんて、どういう見識なのであろうか。僕は日頃から、別に冗談でもなければ露悪的なつもりもなく、僕は企業人である前に哲学者であり、そして哲学者である前に一人の人間であると言っている。哲学者であることは、人として生きる(なかんずく〈善く〉生きる)ことに優先するようなものではないのだ。こういう、僕の見識から言えば、当該の研究分野については学ぶべきこともあろう人物ではあるが、人としては全く尊敬も信用もできないと言わざるをえない。そもそもが、FC2 なんていう違法アダルトコンテンツで儲けている会社のブログ・ホスティング・サービスを利用しておきながら、他人の見識をどういう言える筋合いではなかろう。

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