Scribble at 2022-12-20 18:29:38 Last modified: 2022-12-20 18:36:14

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吉野家が現在力を入れるのは、カフェのような内装で、ゆったりとしたテーブル席が中心の店舗だ。2024年度までに既存店からの転換も含めて500店を目指す。ドリンクバーやアイスなどのサイドメニューもそろえ、カフェのみの利用もできる。従来の主な顧客層はサラリーマンだったが、新店舗では家族連れや女性客の取り込みを図る。

牛丼「安い・早い」に変化、ゆったり席にカフェ利用も…「薄利多売の商売は苦しくなった」

母校の高校は昼休みに校外で食事してもいいことになっていたから、多くの生徒は寺田町界隈の店に入った。ただし、校内で食事する生徒の多くも弁当を持参していたわけではなく、大阪教育大学の生協が運営する食堂でラーメンを食べていたり、三角コーヒー牛乳や焼きそばパンを競争で買ったりしていたわけである。そういう中で、僕は寺田町の駅前にある『吉野家』にも頻繁に足を運んだ(ちなみに、現在は僕が高校生だった当時と店の場所が変わってしまっている)。同じ時刻に昼休みとなるのだから、もちろん同級生と並んで食事することも何度かあった。和歌山で医師になったK君という同級生とも同席することが多く、彼もかなりの早食いだった覚えがある。

次に『吉野家』で食事した思い出が強いのは、第一パンの大阪空港工場で食パン包装や仕分けのアルバイトをしていたときだ。零時に出る第一便として送り出す商品を作る作業から、深夜の第二便までを担当すると、おおよそ早朝の5時前後に仕事が終わる。同じチームで作業した全員で、工場の近くにある『吉野家』で食事してから、それぞれ帰路に就くわけである。大半の人が僕よりも相当に年上であり、また車で通勤していたので、僕だけ歩いて阪急蛍池から始発で大阪市内へ帰ることが多かった。ただし、当時は関西大学の修士(博士課程前期課程)の学生でもあったから、そのまま竹尾先生のゼミに出ようと伊丹空港から関大まで 7 km くらいを早朝に歩いて行ったこともあるが、さすがに仕事を終えてから 7 km も歩くのは無理があった。何度かやったことはあるが、大学に着いてから千里山総合図書館の地下にある大学院生の自習用個室で寝てしまい、起きたら夕方になっていたこともある。竹尾先生のゼミに出られないどころか、自宅にも帰らずに次の勤務へ入ったことがある(この欠席はさすがに竹尾先生に怒られた。大学院で授業や演習を休むのは論外だ)。

昔話はともかくとして、もう安売りでは競争が激しくて事業を安定させられないのだろう。確かに、輸入品の価格が業績に大きな影響を与える商売でありながら海外の動向が安定しないのでは、事業そのものの設計が不明瞭なものとなってしまう。かといって、いまさら高額商品のブランドに転換できるかと言えば、それは無理な話であろう。同じ商品なのに、『吉野家』ブランドだからといって急に並盛を1,000円で販売されても困る。物資が不足しているわけではないのだから、消費者には最終手段としての「行かない」という選択肢が残されている以上、ライフラインとは関係のない客商売(外食産業が全て消失しても、一般的な家庭は何も困らない。弁当を買う店なんていくらでも他にあるからだ)には何をやるにも限界がある。

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