Scribble at 2022-03-28 10:18:25 Last modified: 2022-03-28 12:50:31

僕が神戸大学にいた頃からボスの森(匡史)先生に "Knowledge and its Limits" (2000) といった著作を推薦してもらっていたのが、ティモシー・ウィリアムソン(Timothy Williamson)だ。この人物は、他にも「挑戦的」と言っていいような一般書をいくつか書いていて、或る意味ではイギリスの哲学者らしいとは思う(もちろん、彼がスウェーデン生まれの人物であることは知っている)。アメリカだと「通俗書」つまり、門外漢向けの本として一般書と似たような見た目になるが、一般書の場合は通俗的な切り口や砕けた散文であっても、相手にしているのは必ずしも素人ではなく、実は同僚とかプロパーだったりすることもある。彼の "Tetralogue" (2015) という著作は今年になって(仕方ないとは言え、好事家でもなければ買わないような値段で)翻訳されたが、あれにしても初心者向けの哲学の通俗本という趣にはあまり思えない。そういう意味では、その本が3,000円近くの値段がする翻訳書として日本のプロパーや思想オタクだけが読むことになっても、それはそれでいいのかもしれない。

僕が、たとえ短い論説だろうと著書だろうとウィリアムソンの書く著作から受ける印象の一つは、哲学が何らかの〈ステージ〉であり、そして哲学に限らず(少なくともプロフェッショナルな)学術研究者というものは、そのステージで或る種の〈おりこうさん比べ〉をしているのだという、こう言ってよければ臆面もない発想だ。これは、KdrV の序文でカントが理性的な思惟が抗争を繰り広げる戦場だと規定したときのアイデアと比較してみれば、かなり通俗的な意味での「哲人」つまりは物知りが知恵者であるという、古代ギリシアの頃から何度も繰り返して揶揄され批判されてきたアイデアに行き着く。そして、現代においては「集合知」だの「ビッグ・データ解析」だのという手法を使って、いわば何度目かのソフィスト的な巻き返しが図られていると言ってもよいのだろう。

僕に言わせれば、多くの人々(特に未熟で格好いいフレーズが大好きな若者)がポスト・モダニズム以降の思想という話題について閉塞した印象を抱いていて、かつてのデリダやフーコーや浅田彰といった「スター」がいないという状況に退屈を感じている様子が見える。それゆえ、日本でも「元ゲーム・デザイナー」とか「元SE」とか「数学の独立研究者」といった、少なくとも現今の風潮とか興味に沿った出自や、あるいは Twitter などでのスタンド・プレイを簡単に観察できる人々が持て囃されるのだろう。真面目な思潮の話としては、どんどん複雑化したり多様化したり多元化している状況にあって、勉強することなく〈セカイ〉を未熟な自意識でつかみ取りたいという若者やオタクの望むことは、ひたすら「わかりやすい」という唯一の基準で(しかし「わかりやすさ」それ自体が認知科学的に説明困難な複雑さをもつのだが、そういうことは勉強したくも知りたくもないのだろう)物事を判定し、理解することなのだ。それゆえ、(日本のという但し書きがつくとは言え、いやしくも)大学を出ているどころか学術研究者ですら下らない陰謀論に走るバカがいるわけである。

こうした状況にあっては、形而上の原理や原則を議論するよりも前の話として、膨大な情報をどうにか扱える簡単で「わかりやすい」指標とかテクニックが求められる。結局のところクリシンだの問題解決法だのフレームワークだのリテラシー教育だの何とかバイアスだのしかじか効果だのという、たかだか小手先の揚げ足取り話術やべからず集みたいなものが持て囃されるのも、未熟でイージーな理解を望む凡人の、ほとんど自然現象と言っていいような想定内の趣向や行動や判断によるのだろう。しかるに、日本でも三流大学の学長や殆ど業績のない若手研究者が広げる「人類史」だの「人新世」だのという大風呂敷をありがたがり、勉強や思考を可能な限り〈ショートカット〉してくれるような「まとめ本」みたいなものが売れる。たぶん、ネトウヨ構成作家のコピペ日本史が売れているのも、別に彼の愚かな偽右翼の思想が支持されているからではなく、一冊や二冊で自分の出自を正当化してくれるストーリーが手に入れば、未熟で不勉強なガキ(同然の大人も含まれる)にとって、これほど「わかりやすく」て低コストなカタルシスもないからだ。商業出版における最善の編集方針は、馬鹿に最適化することである。

それゆえ、僕はこうした風潮へは徹底して侮蔑や皮肉や冷笑でもって応じ続ける、哲学者としての責務があるような気がする。もちろん、最初の話に戻ると、僕はウィリアムソン当人がそういうイージーな風潮を煽っているなどとは言っていない。分析哲学が、とどのつまりは哲学でもなんでもない、おりこうさん比べや情報処理競争やディベート・ゲームであるという皮肉は、彼が言うようなことではなかろう。そして、これは何度か書いていることだが、いま述べたような責務を感じているからといって、日本の社会学や文化人類学や民俗学のように個別の(申し訳ないが些末としか言いようがない)事例を無分別かつ無際限に物語仕立てで叙述し続けるというのも支持できない。それも別の意味で言う、ただの通俗化であり、センチメンタリズムだとか、あるいは「理論」(grand theory とまではいかなくても)への浅薄な抵抗だと思うからだ。それが学術的な、つまり理論的な抵抗だと自己反駁的になるし、かといって単なる抵抗では不勉強な素人の「わかりにくい」という口ごたえと大差なくなる。よって、僕は彼らのアプローチは(個々の読み物は当然だが面白いけれど)学術的には自滅的としか言いようがないと思う。哲学者としてはコミットしない。

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