Scribble at 2026-08-20 18:40:14 Last modified: unmodified
戸田山さんの訃報に関連して、愚かな若造の翻訳計画を吊るし上げたわけだが、もちろん特定の個人を非難しても意味はない。こういうことは、「同じようなことをやれば、われわれのような学識ある人間にぶん殴られるのだ」と分からせるためにやるのであって、要するに無教養で無思慮な連中を委縮させるためである。はっきり言うが、不見識な人間の言動に「表現の自由」など許してはいけないのであって(ヘイト・スピーチを規制するとは、こういうことでもある)、たとえ理に適うな内容が 1 % ほどありえるとしても、99 % がゴミやノイズであれば、そういう言動を平等や公平という観念だけで放置したり容認するような社会なんて簡単に愚劣で哀れな末路を迎える。こういうことこそ、最低でも中学を卒業するまで歴史を学んできた者が知っておくべきことなのだ。もちろん、だからといって学歴を優先しろとは言っていない。中卒でも耳を傾けるに値する見識をもつ人はいるし、東大の博士号を持っていても馬鹿は馬鹿だ(世の中の多くの書籍や YouTube などで、それは誰でも知ってるだろう)。
さて、その若造と同じく、昨今は生成 AI で何でもできるなどと妄想する人が増えていて、たとえば「生成 AI に質問を重ねれば、体系的な知識を網羅できるから、専門的な教科書を購入する必要はない」だとか、「古典的大著も AI に原文をペーストして全訳させれば、高額な翻訳書を買わずに済む」などと考えているらしい。このような話は、新しい情報技術が登場するたびに繰り返される典型的な楽観論の一つだ。生成 AI を万能の家庭教師や自動翻訳機と見做して、既存の学術インフラや書籍を無用と言い放つ妄言は、見た目のセンセーショナリズムや手軽さだけで説得力を感じる若者や知性の足りない大人もいるとは思うが、これは僕らのように機械学習の一定の素養がある人間だとか科学哲学者でなくても、少しでも冷静に考えたり過去の事例を比較できる理性をもった大人であれば、ホラ話であると分かるはずだ。
或る分野とか学問の標準的なカリキュラムや教科書の目次を生成 AI に作成させて、それら全ての事項なり単元について一つずつ対話形式で解説を受けながら教科書の代替として全課程を習得した人が、現実にいるだろうか。いや、習得した証明は難しいので、少なくともそうやって生成 AI で作成した体系的な教科書を公表している若者(プロパーではなく)はいるだろうか。アマゾンには、確かにそうやって制作されたらしきゴミのような電子書籍はあるが、そんなものを僕らが購入して確認する道理や責任などない。オープン・アクセスで証明できない限り、「できない」と言えるていどの傲慢さが、われわれのような学識ある人間には許されるのである。僕のような(コミットメント方式の、という但し書きはあるが)権威主義者であれば、なおさらだ。あるいは、先の落書きで吊るし上げた小僧のように、AI に古典の大著を全訳させて、その出力テキストのみを精読して内容を習得したと言う者が一人でもいるだろうか。そのような事例は世界中を検索しても、事実上は皆無と言ってよい。
この現状は、過去の教育テクノロジーをめぐる熱狂と挫折の歴史をそのまま反復している。かつて MOOC(massive open online course)が台頭した際にも、「世界最高峰の大学講義が無料で世界中に開放されれば、既存の大学教育そのものが不要になり、誰もが高等教育を独学できる」と盛んに喧伝された。インターネットへのアクセスさえあれば、世界中のあらゆる知へ到達できるという期待感は、当時の言論界や学習者を大いに沸かせた。しかし、その後に明らかとなった現実は厳しいものだった。各種の MOOC プラットフォームにおける講義の平均修了率はわずか数パーセント程度に留まり、独学のみで正規の高等教育を完全に代替できた事例は極めて限定的であった。大半の学習者は、講義動画への自由なアクセス権を持ちながらも、途中でドロップ・アウトしていった。生成 AI をめぐる軽薄な楽観論もまた、これと全く同一の構造的な欠陥を抱えている。
生成 AI で教科書や翻訳書が不要になるといった、この種のホラ話が見落としている決定的なポイントは、情報のアクセス可能性と認知的負荷の持続という、本質的に異なる二つの領域の混同にある。デジタル技術の進歩は、ライブラリの物理的制約を取り払い、膨大な文献や解説への到達障壁を限りなくゼロへと圧縮した(ただしウェブ上にデジタル・データとしてあればの話だが)。画面の前に座り、適切なプロンプトを打ち込みさえすれば、あらゆる学術用語や概念の要約が瞬時に提示される環境が実現したことは疑いようのない事実である。こういうことは学習のサポートとして利用されていいと思う(もちろん鵜呑みにはできないので、常に訂正して理解の内容を補正できるような姿勢が必要だ)。
だが、情報へのアクセスという課題が極小化されたからといって、それを摂取する人間の側の処理コストが免除されるわけではない。外部のストレージに整理されたデータが保管されていることと、個々の人間の神経系において概念同士が論理的に結合され、長期記憶やスキーマとして頭の中で構造化されることとの間には、依然として埋めがたい断絶が存在する。何度か言っていることだが、積読に意味がないとまでは言わないまでも、やはりどう考え得ても積読は本の内容についての理解でも勉強でもないのである。
知識を真に獲得するというプロセスは、脳にとって本質的にエネルギーを消費する重労働である。未知の術語を既存の知識から作られた体系へと位置づけ直し、矛盾する記述を吟味し、抽象度の高い論理展開を頭の中で反芻したり統合する作業には、一定の認知的負荷を持続的にかけ続けることが不可欠となる。この労苦は、どれほど検索性やテキスト・データの生成速度が向上しようとも、生理的な限界として人間の側に厳然と課され続ける。したがって、手元に情報が即座に呼び出せるという操作的な容易さを、体系的な知識を我が物としたという認知的な達成と等置してしまう点に、独学だけで学問の習得を簡単に代替できるというホラ話の根本的な誤謬がある。道具の側がどれほど洗練されようと、人間が知識を内在化する際に支払うべき代謝コストそのものは、全く割り引きされないのである。このところ、「独立研究者」などという愚かなフレーズでイージーな独学を勧める人が増えているけれど、その独立研究者を名乗っている人たちの大半がいわゆる「ドクター崩れ」や大学院への入試に落ちたり大学院へ進学しなかっただけで学部時代に一定の学識を積み上げている人たちであるという事実を真面目に受け取るべきだろう。つまり、彼らは自分たちがやらなかったこと、そして恐らくは大学で厳しい修練をせずに文化人や学者ヅラしたいだけのバカどもに下駄を履かせるだけとなりかねないような愚行をやっている自覚がないまま、自分たちは何か啓蒙活動か philosophy for everyone のような社会運動をやっているつもりになっているのだ。僕は哲学者として、こういう愚行を「自己欺瞞」と呼んで徹底的に(少なくとも哲学からは)排除することが残りの人生における一つの使命だとすら思っている。
なんにせよ、学術書や標準的な教科書が持つ最大の価値は、単なる事実の集積ではなく、専門家によって練り上げられた「何を、どの順序で、どの深さで学ぶべきか」というカリキュラムのアーキテクチャにある。まだ体系的な知識を得てもいない段階の学習者が AI に対話形式で目次を作らせ、単元ごとに質問を重ねる自律的学習を行おうとすると、常に「次に何を問うべきか」とか、「得られた回答の妥当性をどう検証するか」というメタ認知的な判断を自分自身で下し続けなければならない。教科書を使った自習、つまり self-contained な学習とは違って、この過大な自己推進コストは急速な認知的疲労を招き、途中で学習を放棄させる主因となる。それに、実際にこういうコストを払って実際に自力で体系的な内容を全て生成 AI で引き出した者などいまい。「生成 AI で独学」なんてのは、はっきり言って宣言している当人ですら実際にやったことがないホラ話なのだ。
更に、対話型インターフェース特有の「説明深度の錯覚」も学習の定着を妨げる。AI からその場で分かりやすい解説を与えられると、学習者は自力で深く理解したような全能感を抱きがちになる。しかし、本来の体系的な学習において不可欠な、難解なテキストと格闘し、概念同士の連関を自力で再構築するという認知的摩擦を回避してしまうため、知識は断片的な理解に留まり、長期的な定着に至らない。また、古典的大著の全訳に関しても同様の誤解が存在する。学術的な翻訳とは、単なる文字列の言語間置換ではなく、学説史的な文脈、訳語選択をめぐる先行研究の批判的検討、そして詳細な訳注の付与を含む高度な研究成果そのものである。生成 AI が出力する平易な機械訳は、テクストの表面的な意味をなぞることはできても、その背景にある思想史的射程や専門的な論点を見極めるための補助線にはなり得ない。
どれほど AI の言語処理能力が向上しようとも、人間が生身の知性を用いて体系的な概念体系を内面化する作業には、一定の負荷と時間を伴う不可避なプロセスが存在する。「すべてを AI で代替できる」という発想は、情報取得の手軽さと知識獲得の困難さのあいだにある本質的な溝を見誤った結果であり、かつてのオープン講義ブームと同様のドロップ・アウトの歴史を反復する可能性が高い。