Scribble at 2025-09-20 08:59:31 Last modified: 2025-09-21 21:22:46

人類史スケールの保守思想という名目で雑な議論をしているが、一つケース・スタディのようなことをしてみよう。

ぶっちゃけ言って、僕は現代の文化的な進展や現状を鑑みるに、哲学するのに外国語を学ぶ必要はないと思っている。簡単に言えば、洋書を読む必要は全く無い。したがって、洋書を読むことに大半の時間を使っている現今の大学での哲学教育の課程は、その多くが学生の各自がもっている経験や経緯や動機や関心に応じた、それこそ馬鹿でも口にしている「問題意識」とやらを醸成するのに不適切であり不十分だと思う。外国語の勉強や、英語なりフランス語なりで書かれた本の読書に費やす膨大な時間と労力とお金が無駄なのだ。

このような議論ができる理由は、われわれの人類史を振り返れば明白だ。われわれが現実に「哲学史」と呼んでいる書物や記録の類によると、哲学者として大きな影響力をもつかインパクトのある実績を残した人物が、その事績の規模に比例して数多くの外国語を習得していたという規則性など全く無い。プラトンは、自分では大きな事績を残したつもりになっているらしい元東京都知事の舛添要一氏のように7カ国語を扱っていたのか? 孔子は何か国語を話せたのか? ジャック・デリダは日本語の本を読めたか?

妄想が大好きな人々によれば、外国語を習得すればするほど「真理への近道」になるらしいので、機械的に習得するべき外国語の数を増やし、そして機械的に外国語の本をたくさん読んでいけば、やがて真理に到達するかのような妄想で学生に外国語の習得を促す。つまり、日本語で書かれた本から得られる知見の集合、英語で書かれた本から得られる知見の集合・・・などという集合があって、それらの和集合が大きくなればなるほど「真理」という宇宙に近づくというわけである(もちろん、ここでの「宇宙」は集合論の用語だ)。あるいは、それら各々の言語で書かれた文章には、正しい内容も間違った内容もあろうから、正しい内容だけの共通部分という集合が極大化したものを「真理」と呼ぶのかもしれない。もちろんだが、僕はこういう小学生レベルの visualization など全く信用していない。女子高生のケツを表紙にした「哲学入門」を出版するような連中が、美しいイラストで馬鹿を相手に本を出せばよかろう。

いずれにしても、外国語の天才こそ真理への崇高なる使徒であるといった馬鹿話は、それが東大教授であろうとハーヴァードの「人気教授」であろうと、簡単な嘘であることは彼ら自身が証明している。僕らに比べて圧倒的な語学力を誇る東大や京大の教授の大多数は、Springer や Cambridge University Press から単著を出すことすらできない、世界規模では中小企業の個人事業主と同じ程度の知名度しかない。彼らがそれでも岩波書店や筑摩書房から著作集を出したり、どこかのキャバクラへ行った話すら書いてあるような日記でも全集に収めてもらえるのは、単に日本の経済事情や出版業界の余裕があるからにすぎず、それぞれの大学のプロパーは彼らとの伝手があるからでしかない。優れた思想家や哲学者に限って外国語を習得していたという規則性などないし、数多くの外国語を習得したプロパーこそ大きな業績を残したという規則性もないのだから、簡単な話であって、それらには統計的に有意な関連などないし、ましてや論理的な条件関係を論じるなど問題外であろう。

すると、次に古典の研究を推奨する立場からは、やれ多様性を確保するだの、あるいは僕がしばしば述べている自己欺瞞を避けるという議論を使うことで、色々な時代や国の人物が残した著作を読むことによって見識が広がり、多様な観点をもつことができて、独りよがりな議論に陥っていることに気づかない自己欺瞞を防げるという利点があるという話が展開される。いわゆる「思惟する者としての誠実さ」に訴える議論だ。もちろん、可能性の話としては否定する必要はないし、否定するべきでもない。だが、しょせんは読書の話をしているか、あるいは外国人とコミュニケーションする話でしかないことを、現実に母国語の著作だけを読んで培える素養や、そこから展開できる思考の時間なり労力を過剰に割いてまで、外国語の習得や外国人とのお喋りに費やしてよいというコミットメントに、大半の学生を動員して良いという学術的・哲学的な根拠は何なのか。実際には、これに社会科学・思想史の実証としても、それから哲学の論証としても、十分に妥当な議論を展開できるものはいないわけである。というか、たいていのプロパーなんて、そういう議論が必要だという自覚すらないし、仮にでも黙考してこなかったであろう。僕は権威主義者なので、そのように思考の蓄積が乏しい議論やアドバイスに説得力があるとは思えない。ただ単に、口先で誠実な良い人ぶったスタンスを求めたり推奨しようと、そこには現実的な効用が得られる見込みもなければ、コミットして実際になんらかの成果があったという説得力もないわけである。それとも、彼らの現実的な「成果」とやらは、岩波文庫の古典的な著作を翻訳する栄誉を与えられた、みたいな話で終わるのかね?

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