Scribble at 2021-05-09 10:20:24 Last modified: unmodified

カナダやインドやアメリカやイギリスやドイツ、要するに先進的な学術研究が盛んな国では、"public lecture" として数多くの講座が開かれていて、実際に研究に従事している人たちが自分たちのテーマについて語っている。もちろん、それぞれの専門的な関心について語っていることが多く、いきなり聴いても分からないものも多くある。「わかりやすい」ことが尊ばれている東アジアの辺境国家、"Japan" とか言われているらしいが、そういう文化的な僻地においては、ママに咀嚼でもしてもらったお粥みたいな通俗書を出版することが〈正義〉であり、こうした(たぶん日本では学部レベルの素養が必要とされる)公開講座は「公」の名に値せず、「ミンシュテキ」でないとして非難されるであろう。

こうした俗物性を、僕は昔から〈下方圧力〉などと言ってきた。多くの人たちが「中華料理」と称して中国の料理だと思い込んでいるものが、中国人に言わせれば北京でも食べられない「奇妙な料理」(四川省から来ていた留学生に聞いたことがある)であるのと同じく、自分たちが吸収しやすいように作られたものを口へ運ぶだけの幼児みたいな態度を〈消費者〉だの〈生活者〉だのと広告代理店のキーワード丸出しで語る愚かさは、まるでロボットだ。こんな連中が、教える方も学ぶ方もアクティブ・ラーニングやら北欧の高校でやってるディベート授業を猿真似したところで、それこそ昔の民青だろうと右翼だろうと出来の悪い大学生みたいに凝り固まった人間が出来上がるだけだ。そして、そういうガキに限って、自分たちでものを考えているつもりになってマニュアル的な「社会貢献」を口にし始めたり、果ては官僚になってしまうのだから始末が悪い。自分たちは〈善いこと〉をしていると信じ込んでいる者が、もっとも厄介だ。

専門家や大人の役目は、もちろん後から学んだり生活を始める人々をサポートすることでもあるが、放っておけば実はひとりでに自分の〈世界〉を狭く設定してしまいがちである子供に、もっと広く違う視野があることを教えたり、知らないことがたくさんあると伝えることにもある。昔から〈教養〉を求めたり、能力以上の課題を設定して修練させる意味は、ここにある。もちろん、大人の方も未熟だったり愚かであり得るため、このような意義を正確に理解せずに厳しいタスクを課せば人が何かを習得するとか成長すると誤解している場合もある。よって、常に大人の言うことを聞けばいいわけでもないが、大人や他人から常にスプーンでまんまを口へ運んでもらえると思っているような人は、50歳になろうと70歳を越えようと、社会的には〈子供〉としてしか扱われない。

そもそも公開講座のようなものは人が自由に参加して聞けるものであり、分からなければ勉強しろというだけの話でしかない。学部レベルの勉強が必要な内容に文句を言っているような人々は、それこそ海外では誰でも同意してくれると思うが、単に勉強したくないからそんな甘えた事を言っているだけなのだ。

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