Scribble at 2024-09-18 11:01:48 Last modified: 2024-09-18 11:02:17

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The importance of stupidity in scientific research

専念しているテーマや研究プロセスや関連情報などを意図的に厳密な条件で制限することによって、そういう条件のもとで遂行される学術研究にリソースを集中することが、いまとなっては大規模な分業としてしか成立しない科学研究コミュニティの実情でもあろうし、またベスト・プラクティスでもあろう。もちろん、昔ながらのグランド・セオリーとか原理的な問題を解決するような「大」のつく偉人が現れないとも限らないけれど、すくなくとも自分がそういう人物であるという傲慢さがないなら、そうした piecemeal research をやってなんの恥ずべきことがあろうかということでもある。もちろん、僕は「もともと」学問は単独で成立しない社会的な行為であり文化であると思っているので、上記の議論を原則として支持する。

ただ、それをあからさまに "stupidity" と表現することの是非は再考の余地がある。学術研究のコミュニティにおいて正確な脈絡を共有すればいいが、こういう言葉は簡単にマスコミや出版人のおもちゃになる。そして、「これからは独立研究者の時代だ」みたいな戯言が新刊書の帯に書かれるようになったり、「パズル解きに埋没する現代の学術研究の閉塞を撃つ!」みたいなセリフを掲げて、物書きや自称思想家がクズみたいな本を出すようになるし、キャバ嬢みたいな帰国子女の YouTuber とかが「あたしにもできる科学哲学」みたいな動画をお手軽な権威として配信し始めるのかもしれない。したがって、もし "stupidity" を語るなら、やはり僕は権威主義者であるから、それと自分たちの見識に責任とプライドをもつという自覚がセットだと思うんだよね。確かに、量子コンピュータの専門家でありながら書道の師範をやっている人はいないかもしれないが、字を書くのがうまいだけで線形代数の勉強すらしてない人間が量子コンピュータについて公に意見を語る資格なんてないのだ。

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