Scribble at 2024-05-27 14:50:27 Last modified: unmodified

ここのところ、Oxford University Press が発行しているイギリスの哲学雑誌である Analysis のバックナンバーを改めて初号から眺めているのだけれど、やはりこういうスタイルの雑誌にある欠点として、編集者がタイトルの付け方をうまくコントロールしないと、昔から購読している人にしか脈絡が分からない論説があって、タイトルだけでは値踏みしようがないということだ。もちろん、タイトルだけで十分に読むべきかどうかを判断することはできないわけだが、しかしあまりにも先に公刊された他人の論説を読んでいる人にしか分からないようなタイトルを付けられると、どうしても "Reply to someone" などというタイトルだけを見せられて読もうという気にはなれない。それこそ、オックスフォードに林立する豪華な建物の奥で、暇潰しに哲学をやっているような人々にしかそんな余裕はなかろう。

こういう事情があるので、バックナンバをスキミングするときは必ず初号から見ていかなくてはいけない。遡るように見てゆくと、それ以外にも Erratum を素通りしてから面白そうな論文だったと知って、アーカイブのリストを逆戻りする羽目になったりする。

それから、特に Analysis の場合は論説の分量が短いので、どうしても取り上げるトピックが狭くなり、そしてたいていの場合は議論する範囲が狭くなると、それに比例して議論の内容そのものが浅くなる。つまりそれは、小さな論点の詳細を深く掘り下げて、議論の構築に資する微小な building-block を積み上げるような貢献をしているというよりも、敢えて言えば、些末な話を逆に薄めたり伸ばしたような議論を乱造しているということだ。科学哲学の元学生から見て、いわゆる「分析哲学」系の議論というのは、その手の些末という印象が拭えない。

確かに、われわれは認知能力なり言語によって理解したり議論するわけである。もっとも、言語から距離を置くスタンスを維持するような工夫、あるいは訓練が必要なのかもしれない。それは、情報商材詐欺師のインテリ・ヤクザとは別のレトリカルなテクニックであろうし、軽んじてよいはずはないのだが、どうも哲学として以前に、言語の運用者として説得力がある議論を見かけない。たとえば日本語話者に対して書かれたものでも、簡単に言えば初等的な論理学とクリシンを組み合わせた、新卒向けの教則本といったありさまのものが大半を占めていて、学問としての堅実さもなければ、実はビジネス書としての説得力もないのである。

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