Scribble at 2021-01-18 16:25:07 Last modified: 2021-01-19 13:49:24

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山畑古墳群の資料を実家で物色していると、『東大阪市の遺跡シリーズ8 山畑古墳群』(東大阪市教育委員会、東大阪市立郷土博物館)というパンフレットが出てきた。館内で配布されていたものを小学生の頃にもらったものなので、もう40年以上は前の書類だ。幾つか小さな折り目がついていただけの状態で見つけたため、これを自宅に持ち帰ってスキャンしてから色を再調整したりシワをレタッチして、PDF として電子化してある。もちろん他人の著作物であるから、著作権者である東大阪市(教育委員会や郷土博物館)に照会して許可を得たら公開するかもしれないが、原則としては、このようなパンフレットがあるという紹介だけとなる可能性が高い。

あと、これはかなり時間のかかる作業だと思うのだが、東大阪市立郷土博物館が配布していた『はくぶつかん』という謄写版で刷ったプリントを簡易製本しただけの資料が残っていて、これは第一にスキャンしてデジタル化するだけではなく、中身がすべて手書きなので一部は文字起こしをした方がいいだろうと思う。これも、もとは東大阪市の著作物だから勝手にこちらのサイトで公開するわけにはいかないのだが、なるべく公開できるように交渉してみたい。これは、実家から〈発掘〉してきて手元にあるのは9号(昭和51年10月1日発行)から30号(昭和55年10月1日発行)までの一部だけで、8号までは実家に残っているかどうかわからないし、31号以降も発行されたのかどうか(そして所持しているかどうか)も分からないので、欠落があれば郷土博物館に行って尋ねてみる必要があるかもしれない。そもそも、これらも僕が小学生の頃に博物館の職員が使う地下の部屋(出入り口や展示室は2階にあり、1階は事実上の地階として研究室と所蔵庫になっていた)に出入りさせてもらっていた頃、郷土博物館に残っていた書類を職員の方に青焼きの複写機で複製してもらい譲り受けたものだったのだ(小学生にそんなことまでするほど、いまの職員に余裕があるだろうか)。つまり、40年前ですら保管してあるものをわざわざ複製しないと読めなくなっていた資料なので、いまでも博物館に残っているかどうかは分からない。

こういう資料は、手書き文字の(或る意味ではセンチメンタルな風情を感じる)良さだけでなく、出土品を手にしたり、まさに調査が行われていた発掘現場に足を運んだ人たちの、当時の感想なり印象が残っているという意味では、実際に考古学として真面目に受け取るべき価値がある。実際、既に発掘調査が終わって埋め直されたり破壊された場所を、考古学の調査という名目だけで自治体が所有権者に交渉して建物を解体して再び掘り起こすなんてことは不可能に近いし、その場所を掘り起こさなくても周囲の視界なり風景も変わってしまっているだろうし、大きな建物が増えていれば風の吹き方や温度、よって植生、よって土壌にも大きな変化が起きていて、当時の環境や景観を想像することが難しくなるからだ。確かに40年前なら分かるのかという疑問もあるとは思うが、時代が下れば下るほど想像したり推定することが難しくなるのも事実である。

[追記:2021-01-19] さきほど調べ直してみると、関西大学博物館が発行している『阡陵』という発行物に、長谷洋一氏が「『はくぶつかん』にみる昭和50年代前半の東大阪市立郷土博物館」(上・下)というエッセイを発表されている。その中で、33号(昭和57年5月)で『はくぶつかん』の発行が終了したと記載されている。

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