Scribble at 2024-02-17 15:42:41 Last modified: 2024-02-17 16:07:33

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このところ船場センタービルについての調査とか論説の制作などはやっていないのだが、あらためて地図を眺めていると、船場センタービルも含めて、足を運んでいる店や地域が偏っていることに気づく。まぁ、自分の興味や生活に関連があるところにしか足を向けないのが当たり前であるから、別に地理学者じゃあるまいし偏っているのが自然なのだろう。なので、徒歩で通勤していたときに(たまに帰宅するときだけ会社から自宅まで歩いていることもあるが)「船場」と呼ばれる地区の通りや筋を手当たり次第に興味半分で歩いていたのは、それなりに興味深い経験ではあった。

大阪市内の地理について不慣れな方に説明しておくと、上の地図で中央にあるブルーで囲んだ区域が「船場」と呼ばれている。ただし、オレンジの区域も「南船場」と呼んでいるため、両方を含めて「船場地区」と呼ぶことがあり、当サイトでも広く解して船場地区という呼び方をしている。簡単には、東端が東横堀川、西端が西横堀川(埋め立てられたので、現在は阪神高速)、南船場の南端が道頓堀川で船場の南端が・・・もう20年くらい通勤や買い物で歩いてるのに、何十回と調べ直してもすぐに名前を忘れてしまうのだが、長堀通だ。なにか「ながほりどおり」という名称を音声として記憶に留める工夫をしないといけないな。そして、北端が土佐堀通となっている。

それから地図を引き続き眺めていると、もっと南側では30年くらいの間に区域全体が様変わりしてしまったことに驚かされる。これは前も書いたことだが、まず「大国町」というところは、地下鉄の駅を降りて地上へ上がると、そのむかしは大国町の交差点を挟んで四方八方に靴屋が数多く密集していたのだが、いまは確か靴屋なんて1軒もない。ミナミのクラブやキャバで働くおねーさんたちが住む、マンションの街になってしまっている。この辺の事情は全く分からないし、日本の社会学者であれば靴屋というだけで何か思い当たることがあるのかもしれないが、あまり詮索するつもりはない。ただたんに、これまでは靴を買いに行くなら大国町へ行こうという常識が通用しなくなって驚かされるだけだ。

そして、もう一つはすぐ東にある日本橋(東京の「にほんばし」とは違って「にっぽんばし」と呼ぶ)という区域だ。ここは中学生の頃からパソコンやカセット・テープなどを買いに行っていた街で、都内なら秋葉原に通っていたときの郷愁みたいなものを今でも感じさせるのだが、もういまでは(少なくともメイン・ストリートの堺筋は)昔の面影は殆どない。簡単に言えば、10年くらい前までは国内のオタクが集まる、エロ・ゲームのフィギュアとメイド・カフェの風俗街になっていたのだが、ここ最近は海外からの観光客も訪れるため、価格設定も変わってきているようだ。派遣とかの貧乏な国内のオタク諸君は、信長書店で中古の AV 作品でも買うしかないらしいが、僕にはどうでもいいことだ。たぶん、もう一生ここには足を運ばないんだろうなと思うと、少し悲しい。

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