Scribble at 2026-06-11 14:39:31 Last modified: unmodified

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Why AI Slop Matters, but Not Like That

弊社の「AI活用ポリシー」でも AI スロップは禁じているのだけれど、それがどういけないのかは、生成 AI を使った(失敗の)実感が伴わないといけない。そこで従来の先行研究を見ると、コンテンツの価値を、個人の好みが満たされるかどうか(個人の効用)という市場経済的な枠組みで捉えている。たとえ他人から見れば馬鹿げたコンテンツ(スロップ)であっても、特定の個人(例:下着姿で踊る父親を見たいという特定の子供)の奇妙で固有な好みを満たすのであれば、そこに社会的機能という固有の価値が生じるのだと主張していた。したがって、AI スロップであるかどうかは脈絡や利用者の価値観とか嗜好によって評価・判断が異なるのであって、客観的に何かをスロップであると決める基準はないという議論があった。まぁ、一般的な相対主義だよね。

だが上の論文では、このような議論は人間を単に提示されたコンテンツを消費するか拒絶するかだけの静的な指標で判断する人物として扱っており、あまりに人間やコミュニティを単純化しすぎている。人間は孤立した消費者ではなく、コミュニティの中で他者と関わりながら好みやアイデンティティ、意味を形成していく。したがって、個人の満足度だけを見るのではなく、AI スロップがコミュニティなり人間関係、何かに意味があるとされる環境をどのように変容(あるいは汚染)させてしまうのかいう社会的な影響に目を向けるべきだと主張している。よって、先行研究は既存の膨大なコンテンツの需要を所与として全く疑わずに議論を展開しているが、上の論文では、その需要自体こそが、テクノロジー企業のプラットフォームで操作的なインターフェースを利用することで、意図的に生み出された需要ではないのかという反論が展開されている。絶え間なくコンテンツを消費し続けなければならないシステム(ユーザーを人間関係の構築ではなく、コンテンツを消費する「ビジネスモデルの部品」として訓練するようなシステム)に依存させられている現状を無視し、その需要を満たすからといって、AI スロップに「社会的機能」というお墨付きを与えるのは、プラットフォーム側の有害な搾取の構造を正当化することになり危険であると断じている。

で、このような話題になると、X やインスタや YouTube でバラ撒かれているような、生成 AI で作った面白動画とかスケベ画像とかを、次世代のサブカルだの現今のクリエーティブだのと持て囃す、素人社会学者とか40代くらいのガキみたいな評論家とかが出てくる。バカは黙ってろよって思うんだけど、デジタル・ネイティブのような「世界に一つだけの『凡人』という特性を持つ花」でも発言できるのがご時世である。しかし、学問でも芸術でも仕事でも、最初から下駄を履かせてもらった連中の成果なんてロクなもんじゃない。未熟者や素人やガキのやることは、やはり昔からクソなわけであって、「褒めて育てる」なんていう素人教育は、それこそ都市伝説なのだ。もちろん、これは優れた成果を評価することと矛盾はしない。

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