Scribble at 2026-06-11 18:45:57 Last modified: unmodified
みなさんも書店で見かけると思うが、ここ数年の間に「哲学」の棚にも AI について論じている本が増えてきた。僕は、正直なところエンジニアとしても哲学者としても、その手の本に興味がないのだけれど、しかしながら彼ら哲学のプロパーがこぞって AI を話題にして、論文を書くどころか本をいきなり出版してしまうのには、それなりの目的があるのだろうと思う。もっとも、社会科学の素養をもつ科学哲学者として言わせてもらえば、それは哲学的な理由などではなくて、もっぱら文化的、あるいは社会的な理由だろうというのが僕の見立てだ。
ともあれ、まずは基本から議論しよう。そもそも哲学あるいは哲学者・・・なんにせよ、少なくとも「哲学と AI」なんて本を書くくらいだから、自分たちは哲学者だと思っているか、あるいは哲学について語る資格なり権利がある人間だと思っているのであろう・・・が AI について論じる理由はなんであろうか。もちろん、哲学では人工知能という概念が登場した1950年代から、Michael Scriven が Analysis に「機械は思考できるか」という論文を書いているし、プトナムやドレイファスらも議論してきた。通俗的な本ではサールの「中国語の部屋」という思考実験が出た1980年代頃から言及することが多いけれど、実際にはチューリングが「計算する機械と知性」という論文を発表したのは Mind という哲学の雑誌だったわけで、ダートマス会議よりも前から哲学では機械と知性についての議論が続けられてきたのである。そして、当時から続いている最も重要なテーマは、明らかに「知性とはなんなのか」というものであって、たとえばこれを機能主義的に定式化できるという人々が multiple realizability と同じ議論を使ってシリコンと銅線を素材にする知性もありうると主張し、したがって我々自身の知性や意識を他の基質で作られた何かにアップロードするのなんのというお喋りを続けているわけである。
端的に言えば、これこそが哲学において AI を議論する最も大切な理由であり、逆に言うなら他の議論は派生的・二次的であって、知性についての議論を明解にピン止めして一定の前提を置くことなく二次的な議論を展開するような人々は、僕に言わせれば哲学の議論をしていないのである。ちょうど、話題を与えるだけで自分自身の仮説や前提を教えることなく、 ready-made なデータをもとに応答するだけのチャッピーに続々と推論の結果を生成させるようなものだ。つまり、哲学の議論でないばかりか、まともな人間のやる議論でもないのだ。したがって、日本で通俗的な本だとか通俗的な連中(みなさんが書店で見かける、某氏や某氏といった、お馴染みの物書きたち)が展開する「AI と哲学」みたいなタイトルの本というものは、同じテーマについてチャッピーに質問して得られるような議論と大同小異であろうと思われる。ていうか、たぶんあんな連中はチャッピーに原稿を書かせてると思うよ。無能だから。