Scribble at 2024-12-23 13:39:03 Last modified: unmodified

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In praise of the hundred page idea

The LAMP というサイトで "The One Hundred Pages Strategy" という論説を公開した人物がフォロー・アップというか弁解の辞を述べている。元の記事は以下のとおりだ。

https://thelampmagazine.com/issues/issue-26/the-one-hundred-pages-strategy

元の記事は、100ページのまとまった論説を読むという内容に力点を置いているわけではなく、読書の習慣をつけたり維持するために、毎日100ページの読書を課すというライフスタイルの話をしているので、二つの文章は同じことを言っているわけではない。だが、前者のライフスタイルを正当化するために上のような「100ページていどのまとまった文章を読む価値」を論じているらしい。

もちろん、僕には大阪維新的な下町根性、要するに剥き出しの反知性主義だとか、あるいはやビジネスライクな「リアリズム」なるものを振り回して、この手の議論を嘲笑する意図はない。しかし、内容とか時間に関するこの手の形式主義に実質的な効用があるかと言えば、疑問を覚える。読書を習慣にするというのは、あくまでも手段なのであって、こういうことが目的化している「読書家」などと呼ばれている連中が(当人の自己満足の役には立っていようと)、しょせん世の中の何の役にも立っていない現状を見ると、改めて読書の価値なり効用とは何であるかと考えざるをえない。もし、読書するということだけが目的であって、それに伴う情報処理だけで事足りるのであれば、そんなことをわざわざ人間がせっせとやる必要など、もはやこの AI の時代においてはあるまい。もちろん読書は何らかの成果のためだけにやるものではないが、寧ろ一定の成果を期待したり求めるような読書でないなら、100ページ読もうと全く読書しなかろうと、そんなことは大きなお世話というものだ。一年に1ページたりとも本を読んでいなくとも善く生きることはできるし、大量の本を読んでいようと内容をわがものとして消化・処理しきれず、成果として書かれた作品に盗作や剽窃を疑われる作家も多い。

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