Scribble at 2021-03-19 13:40:48 Last modified: unmodified

たまにだが、自分自身が保守的な人間だという自覚はあるので、いわゆる「保守」と(マスコミで)呼ばれる人々の著作を手に取ることがある。たとえば、その一人が西尾幹二氏だ。彼の『自由の悲劇 ― 未来に何があるか』(講談社現代新書、1990)を開くと、なるほど「保守」と呼ばれるだけの議論が展開されている。

例えば、こうだ。ドイツに住む主婦から聞いた話として、その人が学校の父兄会に出席したところ、少額の教材を授業に導入するかどうかで3時間も話し合って否決したという。こういう、事実かどうか誰も確かめようのない逸話を持ち出して、西尾氏はドイツ人が原理原則に拘り過ぎるがゆえに自分たちを逆に不自由にしていると論じる。

しかし、このような議論は情報セキュリティとか個人情報保護の分野でも security vs. freedom(セキュリティの目的で行動をどこまで制限するべきか)とか privacy vs. public purpose(公人のプライバシーをどこまで保証するか)などとお馴染みのものだが、このような theme setting が擬似問題であり、それ以外の論点や選択肢を隠すためのイカサマ・ジレンマであることは情報セキュリティのプロパーにおいて自明となりつつある。もちろん、この "security" を "national security"(国防)と置き換えても同じ議論(つまり偽のジレンマ)が成立する。

西尾氏の本を読み進めると、大局的というか俯瞰的というか、ありていに言えば自作の梯子でよじ登った低い屋根からの上から目線で、〈自由を求めすぎると不自由に至る〉という、東京芸人が大好きな〈アル意味逆ニ〉のレトリックを繰り返しているだけに思える。真に思想なり哲学としての原則を語るに足りる観点を据えることなく、3段ていどの梯子を登って俯瞰したつもりになっているらしい。それゆえ、或る決まり事を貫徹することによって、目先の選択や行動に一定の不具合が生じても、更に根本的で普遍的な観点での自由が維持されるという推論にまで、行き着かないのである。少額の教材を導入して、西尾氏が(保守のくせに)お好きらしい資本主義的な競争を持ち込むと、原則はなし崩しになるだろう。いったん原則が緩められると、次はこれ、その次はあれと言って、〈子供のため〉と称する恣意的な教材がどんどん教育現場に持ち込まれることになる。日本がまさにその見本市であろう。そして、小学生に〈水に向かって優しい言葉をかける〉ようなスピリチュアルが河内長野市の小学校に持ち込まれたりしているし、西尾氏のお嫌いな日教組の教育がどんどん持ち込まれる。

どのみち子供の教育なんて学校や家庭だけでコントロールできるものではなく、現代の子供は多くの情報や選択肢をメディア、とりわけネットから得ている。それゆえ、学校で原則を貫徹したところで限界があるのは事実だろう。そして、同じく学校の原則を自由にしても同じことが言える。「生徒の自主性に任せる」と標榜している学校に限って、その「自主性」を大いに活用して生徒の大半がクラブ活動を無視して放課後は予備校へ直行するという実態もあるからだ。

しかし、いずれにしても目先の行動や発言や選択が自由であるか否かだけに固執するというのは、やはり「自由主義」を標榜する保守論客の多くが、実際には自分たちの考える狭い料簡での自由を〈相手に与えよう〉という思い上がった発想でものごとを理解したり論じていることが分かる。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook