Scribble at 2021-03-18 21:38:57 Last modified: unmodified

これも当サイトの読書論のページに入れてもいい話だが、ひとまずここで書いておく。

読書については、人の限られた資産や能力や時間という点を考慮して原理原則の話をしたい。そこで、まず1,000円を手にして書店へ足を運び、いわゆる「古典」と評されている文庫本を1冊手に入れるとしよう。2021年の実勢価格で言えば(もちろん税込み)、1,000円以下で買える本は非常に少なくなってしまったのだが、『哲学の先生と人生の話をしよう』(國分功一郎、朝日文庫)とか、『勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版』(千葉雅也、文春文庫)とか『武道的思考』(内田 樹、ちくま文庫)とか『14歳からの哲学入門: 「今」を生きるためのテキスト』(飲茶、河出文庫)とかは1,000円以下で買えるから、これらの「現代の古典」と言うべき著作の数々を読みふけって、愚にもつかない人生を送って死んでゆくのも一興だろう。

つまらない冗談はともかく、『モナドロジー 他二篇』(ライプニッツ、岩波文庫)や『偶像の黄昏』(ニーチェ、河出文庫)や『自由論』(ミル、岩波文庫)は1,000円以下で買える。これらを手にして、大学生向けのテキストなどで奨励される「批判的な読書」を実行すれば、それこそ1冊の本を元にして10年でも考察を続けられる。最後まで読んで自分なりの論点を指摘して、そこへ自分の批評なり展開しうる議論を肉付けしていった後でも、他の読書や経験から更に新しい論点を見出したり、自分の批評や議論を反証したり補強するような事実や情報が手に入るかもしれない。実は、10年に限らずいくらでも続けられるのが「古典」と呼ばれる著作物の魅力でもあり、難しさでもあり、そして或る意味では不完全さであるとも言える。哲学に限らず、どのような話題についての思考も延々と続けられる。それはつまり問題の難しさや応用範囲(それは反証されうる範囲でもある)の遠大さを示すと同時に、その問題がいかに不完全にしか問われていないかという、思考の始め方という点での未熟さをも示しているのだ。

よって、僕はこのような議論をすることによって、1,000円で学術研究のネタが手に入るのだから、夾雑とも言いうる二次文献や未熟な若造が手掛ける解説本などを読むために1円たりとも捻出する必要はないと言いたいわけではない。逆に、その1,000円を出して数多くの議論を自ら積み重ねるだけでも、人類の知識や思考がどれほど貧弱で、隙間だらけの議論が繰り返され、何十年と研鑽や調査や思考を継いで行こうと、いかに或る種の絶望しか残らないのかという逆説を示したいとも言える。そういう闇を眺めやるような現状に向かって、せめて手にしうるだけの道具を有効に活用したり、他の人々の成果にも助けを求めるくらいは努力してもいいだろうと思う。もちろん、その助けが上記で紹介したクズみたいな通俗本であるとは、「哲学者」を名乗る者として断じて思わないが。

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