2022年05月09日に初出の投稿

Last modified: 2022-05-10

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宮地佐一郎(みやじ さいちろう)-直木賞候補作家|直木賞のすべて

宮地佐一郎(1924年9月6日~2005年3月8日)という人物がいて、何度か直木賞の選考にも作品が選ばれた作家である。著書の一つに『菊酒』(光風社書店、1971)という短編集があり、これに収められた同名題の「菊酒(きくざけ)」という作品は、鹿持雅澄の話だという。ただ、残念ながら僕は一読しようかと思うほどの興味はない。理由の一つとして、どう考えても史実とは思えない、鹿持雅澄の「愛人」が登場するからだ。僕は、まったくの作り話に実在の人物を使うのは、あまり感心しない。どのみち作り話なら、完全に史実とは異なる『パリピ孔明』でも読んでいた方がマシというものだ。

そして二つ目の理由として、僕は宮地氏の『宮地家三代日記』(光風社書店、1970)を所持しているのだが、上記のページで選考委員らが評していた様子からわかるように、作品としてぜんぜん面白くないのだ。宮地家の日記を原典から読み下した訳本というなら分かるが、これを文学作品だと言われても困る。確かに「日記文学」というジャンルはあるにしても、あれは日記〈体〉で書かれた文学作品であって、生の日誌やログがそのままで文学作品として評価された事例は少ない。寧ろ作品として後から他人に読まれることを前提に書かれた生の日記なんて、岩波や筑摩といった出版社から全集が出る前提で自らの「思想」を語るような手合いと同じく、どう考えても自意識過剰で愚劣な文章にしかなるまい。日記に書かれた文言をもって、文学作品に目を通したときと同じ印象や読後感を〈受ける〉のは良い。それは読む側の自由だからだ。しかし、それを日記の主体が最初から意図して書くというのは、僕には耐えられない醜悪さだ。要するに、「菊酒」を読む気がしない第二の理由は、この人物を小説家としては全く期待できないからである。そもそも、直木賞の選考委員によるコメントでわかるとおり、これだけ作家としての力量を疑われているような人物の作品が、どうして直木賞の候補に上がったりするのかという点にすら不信な印象が残る(要するに出版社とか取次の思惑で選んでるだけではないのか。それゆえ最近の報道の傾向として「本屋大賞」が直木賞なんかよりも大きな話題になったりするのではないのか)。

もともと『宮地家三代日記』は、鹿持雅澄が登場するところを読んでおこうと思って買い求めたのだが、後書きの代わりとして付されている「『宮地家三代日記』について」という文章の中に「『叙述』この部分には史的事実と時代的背景を語らせる事とし、『日記』の部分には私の想像と、創作を織り込むことにした」と書かれていた。確かに宮地家の日記はそもそも太平洋戦争時に焼失して現存しないため、宮地氏も他の方から借り受けたという、はっきり言ってどのていどの資料批判を経て原本との比較ができたのかも分からない「写本」を元にしている。よって、原本や他の写本との比較も困難な状況で史料としての正確さを求めるには限界があり、みだりに補おうとすると主観的な思弁を重ねるだけであろう。なんにせよ、史実と想像の区別がつかないものを見せられては、現実に生きた人間としての鹿持雅澄について知りたいと思っている一人としては、司馬遼太郎の描く坂本龍馬や山岡荘八の描く徳川家康みたいなものを読んだところで、〈おはなし〉つまりは娯楽としての効用を超えるものは感じられない。そして、僕にとって鹿持雅澄にかかわる話の大半に、そんな娯楽は必要ないし、とりわけ『宮地家三代日記』にそのような娯楽は期待していなかったのである。

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