Scribble at 2022-05-09 21:50:16 Last modified: 2022-05-09 23:15:11
たまたま今日は Boston という地名にかかわる話題を再び取り上げるのだが、こちらは Boston Review という季刊誌である。他の雑誌や新聞でも、不定期に supplement としてブックレットを発行しており、Boston Review でも興味深いタイトルがいくつかある。その中でも、ぜひ読みたいのが上に紹介している "Racist Logic" だ。
たまに、僕はアメリカこそ社会科学の先進的な業績が生み出されていると同時に、社会問題、とりわけありとあらゆる種類の差別が生まれては蓄積してゆく〈激戦地〉なり〈最前線〉でもあると言っている。ましてや、誰もが知るようにアメリカは日本とは比べものにならないほど簡単に拳銃やライフル、果ては自動小銃すら持てるし、下町の小学校では小学生が(リンゴの皮を剥くためではなく)脅迫用にナイフを持ち歩いていることも珍しくない。よって、アメリカの社会科学者の多くは、単なる安っぽい正義感だけで人種とか医療保険とかデモクラシーを語っているわけではなく、何かのきっかけで反感をもたれでもすれば、キチガイに後ろから銃で頭を吹き飛ばされかねない国に生きているという切実さやシリアスさを常に抱えている。暇潰しやセンチメンタリズムでいたずらに分厚いだけのインタビュー集を作ったり小説や愚にもつかないエッセイやブログ記事を書いたり、民放のワイドショーに出て些末な「時事」について予定調和的なコメントとやらを語る暇なんて、アメリカの社会科学者にはないのだ。そしてそれゆえに、理論的な精緻化や形式化がどんどん進行するとも言える。同じことは、おそらく僕が専攻している科学哲学にも、それこそ知識社会学や科学社会学の応用として当てはまるだろう。
ともかく僕がつねづね感じてきたように、「虐め」と呼ばれて過小評価されている、子供による犯罪行為や人権侵害にしても、あるいは部落差別や女性差別や高齢者差別や身体障碍者差別や学歴差別や都道府県差別や宗教差別や業容(下請け)差別など日本にも数多くある差別にしても、それらに関する研究の多くは、被害者側からの救済やサポートや法的保護、果ては敵対する研究者や権力者に対する〈文化的なリンチ〉や、自分自身の左翼的な欲求を目的に書かれたクズみたいな正義を振りかざす駄文だと言ってもいい。「文化的なリンチ」という表現のニュアンスがわかりにくければ、ヘンリー・フォンダが主演した『十二人の怒れる男』でフォンダが演じる陪審員7番が言った "Ever since we've walked into this room, you've acted like a self-appointed public avenger!"(この部屋に入ってきてからこのかた、あなたは勝手に合法的な復讐者のように振る舞ってるじゃないか!)というセリフを思い出してみよう。
ということで、差別する側の理屈、誰かを不当に評価したり解釈してしまう人の心象であるとか弁解であるとか正当化にかかわる理屈、そしてそれら理屈の認知的な条件を正確に把握することなしに、こうした課題を解消したり補正したり、ともかく酷い被害が生じないように対処することは困難だと思う。したがって、うえで紹介したようなアプローチは有効な成果をもたらすきっかけとなる。日本では少し前に、どうして差別してはいけないのかという反語を使った著作が出たけれど、あれも結局は「いけない」という理屈が難しいという、しょせんは日本のクズ出版業界がお得意な、社会科学的なお喋りや「学者がやる『笑点』」の一種であって、さまざまな課題に立ち向かったり取り組もうとする切実さをもつ人にとっては、糞の役にも立たない与太話でしかない。