Scribble at 2020-06-21 22:03:18 Last modified: unmodified

いま準備している黒人差別についてのサイトで、どうして日本人でありながら、そして特に黒人と個人的な付き合いもないのに、黒人差別を取り上げるのかという話を書いている。一つには、僕自身が大学でいわゆる「分析系」と呼ばれる哲学(分析哲学と科学哲学)を専攻していて、女性の研究者が少ないことに違和感をもっていたのだが、黒人やヒスパニックやネイティブ・アメリカンが圧倒的に少ないということにも違和感をもち続けていた。そして、こういう違和感を覚えると、アメリカに関する話題を眺めるたびに、似たような違和感をもつことが増えていった。

その一つの例として、僕はアメリカを横断する「ルート66」に関わるフォークロアというか風景が好きで、写真集も持っている。そして、その写真集を眺めていると、アメリカに住む人々の様子を撮影しているのだが、黒人どころかヒスパニックや東洋人やネイティブ・アメリカンが一人も写っていないことに気づくのであった。そして、僕はルート66に沿って点在する店や住宅の人々について書かれているエピソードを興味深く読むのだが、結局は今世紀に入ってからの話でしかなく、何らかの郷愁にも似た印象を受けはするのだが、しょせんは歴史の浅い、アメリカの産業発展と共に生まれては廃れていった開拓者の刹那的ライフスタイルのパッチワークなのではないかと思ったりもする。彼らの話は面白い。でも、そう面白く読んでいる自分は、いったい何をこういう話に期待して読んでいるのだろうかと思うと、もちろん彼ら(殆どが白人の老人だ)の人生を冷笑する意図はないのだが、しかし何か全く微笑ましいとだけ呑気に受け取る気にはなれなくなる。

しかし、もちろんこれは日本について考えてみても同じことなのだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook