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魚住 昭『野中広務 差別と権力』(講談社文庫、2006)

評伝というものは、もとより取材したり文章としてまとめる著者の指向なり期待なり偏見なりによって、十分に正確でないこともあれば、書いたこと、それから書かなかったことによって、間違った印象を描いてしまいかねない。もともと嘘や脚色で人物像が設定されていると分かっている NHK の大河ドラマや『プロジェクト X』などは、一種のファンタジーとして割り切って眺められるけれど、ノンフィクションの評伝は自分のお金でわざわざ買って読むのだから、誰でも自分の鑑識眼を疑いたくはないので、どうしても評価は甘くなる。

なので、そういう自分自身のバイアスをなるべく剥ぎ取って読後感を整理すると、権謀術数に長けた有能な人物ではあったと思うのだが(2018年に死去)、やはり本書で指摘されているようにビジョンのなさという致命的な欠点があったと思わざるをえない。現に、本書の中で描かれている数々のエピソードが示しているように、野中の足跡は政局に絡む話題ばかりであり、法令の立案においても具体的な内容について明確な見通しや思想をもっていたという事例が殆ど紹介されていない。つまり、誰がどういう役割で権力を行使するべきなのかという話ばかりだ。そうした中で、彼個人の琴線に触れて感情が爆発するようなケースが織り込まれているわけだが、では彼が日本から部落差別を撤廃するために何がどうなればいいと考えていたのかは、結局は分からない。彼ができたのは「これは差別を助長する」という、差別される側からの指摘だけであって、もちろんこれを国政の場で言える人物がいたというだけでも一つの貢献ではあろうが、しかしそれだけならいまや SNS で PC なり #metoo なりを叫ぶ人々と社会的な影響力は変わらない。

もちろん、わざわざ公の場で自らの出自を語って説くようなことがなくなる社会や国にすることが望ましいわけだが、それを当事者こそが権力を握らなければ達成できないと考えるのは、それは殆ど共産党エリートの暴力革命と同じ理屈である。ここで何度も書いていることだが、差別は誰にでも起きることであるからして、差別は歴史的な経緯で被差別者と特定されている人々だけが改善できる問題ではなく、差別する側になりうるという意味では全ての人(もちろん、差別される側の人々が差別する側となる場合もあろう)が取り組むべき問題であると思う。しかるに、出自を問うことなく国政なり様々な社会システムについて全ての人が取り組むようになった時点で、差別解消への実質的なステップが一つ進むと思う。よって、野中のような人物を記憶に留めることはよいとしても、やはり彼のような目立つ人物だけを話題にして、不世出の天才政治家だの何のと色々な美辞麗句を並べて、要するに別物扱いすることでは、それは部落差別と同じだと思う。それから、この手の本によくある「清濁併せ呑む」みたいな安っぽい感想も不要だ。それは、たいていにおいて、そういう感想をもって口にする本人が無能であることの言い訳や自己弁護でしかない。

なので、僕は本書を一読することはお勧めするが、「感心」することはお勧めしない。たぶん、著者の魚住氏も読者にそんなことは期待していないと思う。

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