Scribble at 2024-11-30 14:11:28 Last modified: unmodified
よく、「ヒトだけが理性的な(あるいは他の属性でもいいが)生物種なのか?」という問いで論説を書く人がいて、さきほども Oxford University Press のサイトでジャーナルに発表されていた論説を見つけたのだけど、こういう問いを発している場合の想定なり前提について、僕は疑問がある。
このような問いへ答えるために、まずもって「理性的な(rational)」という属性の定義を厳密かつ明晰にしなくてはいけないという指摘は、それこそ学部生でもできる。しかし、このような定義ができたとして、その定義に見合う生物種であるかどうかの判定基準や判定するにあたっての測定とか観察が、そもそもわれわれの認知能力なり技術において可能であるという別の隠れているように思う。もちろん、たいていの哲学者というものは、こういう「実務的」な仮説というものを無視したり軽視する傾向にあるが、僕に言わせれば、それは哲学的な超然とか捨象化という高尚な能力を示すというよりも、端的に言って実証にあたっての無能を示すものでしかない。そして、このような問いは実証できない限り何の説得力もないであろう。
仮に、理性的であるための条件 A が厳密かつ明晰に定式化でき、それを概念として僕らが理解できるとする。当たり前だが、僕ら自身の知性において理解不能な定式化は、そもそも「定式化になっているかどうか」の要件すら僕らには理解不能であろうから、そんなもので最初の問いを論じたり考察することには意味がないからだ。しかし、逆に言えば「理性的であること」は僕ら自身の知性で理解可能な範囲において定式化される他にないため、こういう定式化は本質的に anthropic である他にないと言える。要するに、このような anthropic であることから離れて理解できない定式化なり基準を使うからには、それによって理性的であるかどうかを観察されたり測定され、そして判定される他の生物種は、当たり前だがわれわれ人類からみて(はっきり言えばわれわれと同じ程度に)理性的であるかどうかを見積もられる他にない。
或る意味で、これは当然であると考える人もいるだろう。たとえばリチャード・ローティや彼の信奉者である「民主主義者」は、このような「健康な人間中心主義」を高らかに、そして快活に口にすることであろう。
だが、僕は民主主義者でもなければ人間中心主義も支持しない。はっきり言えば人間中心主義は自己欺瞞の典型であり、哲学者であれば必ず避けなくてはいけない、自ら作り出してしまう陥穽というものである。たとえば人の生涯や世界の存在について「意味」があるとかなんとかという議論をしているのは、この手のタイプの(哲学史や思想史の成果を動員した大半の議論ですら説得することができない、実は手に負えない)人々だ。そして、僕が思うには生物種について理性的であるとかないとか議論することもまた、恐らくはこの手の人々に匹敵するくらい自己欺瞞に陥っているのと変わらない状況にあると思える。もちろん、人の認知能力を反省したり相対化するために、「人はカラスよりも桁違いに賢いと言えるわけではない」などと為にする議論を意図して露悪的な表現を使う人もいるだろうが、そういう場合ですら、結局のところ「賢い」とはなんであり、それが結局は人にとっての利得という意味を超えて学術的にどのような意義をもつのかは、殆ど説明などされないわけである。思い上がった人類に冷水を浴びせるという構図に何か効用があることは否定しないが、単に水をぶっかけるだけしかしない物書きの文章など、結局は社会的にも、個人の認知活動においても、有効な反省や転換を起こすものではないと思う。