Scribble at 2024-11-30 11:07:35 Last modified: unmodified

グローバリゼーションに関する本をいくつか読んでいると、もちろんこの言葉の意味や定義について多くの考え方があり、殆ど単一のコンセンサスに向かうことはないだろうと思う。それは、それぞれの異なるアプローチや視点にも相応の意義や説得力があり、それらを「コンセンサス」なるものへ捨象したり吸収する、学術的な意義や認知的な効用があるとまでは言えないからだ。

ただし、僕はグローバリゼーションの時代区分については、どうしても受け入れられないものがある。それは、これも一部の人々が主張しているだけではあるが、グローバリゼーションは先史時代から続く、要するに「人新世」の現象であるという理屈だ。よって、グローバリゼーションは人類の営みが引き起こす必然的な現象であり、他の選択肢はなかったとばかりに言う。これは、僕にはとても受け入れられない或る種の決定論であり、いわば短絡的な機構や機能によって人の社会を「法則」だの「科学」だのという屁理屈で語ろうとするマルクス主義の変種にすぎない。僕は、敢えて「人類史スケールの」保守主義者と自称している立場から言って、こういうデタラメな妄想にもとづくグローバリゼーションの議論には与しない。

この手の「先史時代にもグローバリゼーションがあった」などとホラ話をバラ撒いている人々というのは、僕に言わせれば家族、親族、あるいは集落や地域という共同体の社会関係を「グローバリゼーション」と呼んでいるに等しく、要するに平安時代の近所付き合いを「グローバル経済」と称しているような滑稽さを感じる。しかし、僕らが見知っている "global" という言葉は地球規模のスケールで理解するべきものであり、そしてそういう規模で展開している関係(家族であれ上司と部下であれ取引であれ)が直にお互いに情報を交わして互いの意思決定や行動に影響を与えるような状況をグローバリゼーションとして認め、調べたり議論しているのではないのか。具体的な影響関係という事実を積み上げて議論している傍らで、あたかも歴史小説みたいな外挿だけで社会を議論するというのは、僕らのように古代史や考古学の素養がある人間においては慎重であるべきとされていることだが、そういうファンタジーを社会科学の議論であるかのように語って何が嬉しいのだろう。

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