Scribble at 2021-07-19 12:46:07 Last modified: unmodified
上記は、2014年から始まったとされるオンライン・コンテンツやリソースあるいは情報の流通経路に見て取れるサイロ化について、2017年に議論している記事だ。いまや、その傾向は更に進んでいるのだろう。(1) 検索、(2) コンテンツ、そして (3) 配信プラットフォームという、情報の伝達や管理に関わる重要な機能やサービスを、ほぼ GAFAM で仲良く共有している("M" は Microsoft)。さきごろ Google が AMP という規格でスマートフォンに特化したコーディングを推奨するという、事実上の「指令」を放棄したと伝えられていて、これはこれで良いことだったと思うが、力関係という大きな趨勢としては殆ど変わっていないと言える。検索および物流という、情報ネットワークと物品のロジスティクスとにかかわるヘゲモニーつまりは〈アタマ〉を GAFAM に掌握され押さえられてしまっている状況では、多様性などと軽口を叩いても所詮は用意されたパイをどう切るかの多様性でしかないし、オープンだのフリーだの YouTuber だ e-sports だと騒いでいようと、しょせんはお膳立てされたプレゼンスでしかない。筆者が予想していたように、いまやインターネット接続には net neutrality を脅かす圧力が日増しに加わっていて、その最大の圧力はプロバイダと言うよりも GAFAM がネット接続と合わせて提供する IoT 商品であろう。
コンテンツの流通については、上記で引用したように Google は「検索」というアプローチに見切りをつけ始めていて、自前の膨大なコンテンツから利用者に〈何を自動で適切に提供するか〉へとサービスの基本的な原理を変えている。もう、人々は自分が何を知りたいか、どうすれば知りたいことを見つけられるかすら分からなくなっているし、そもそも何かを知りたいとすら思っていない可能性もあるというわけだ。もちろん、それはそのとおりだろう。パソコン通信の時代なら、高額な通信料金を払ってでも、参加している人たちは議論したりものを知り教えることに強い動機や熱意やインセンティブもあっただろう。しかし、いま世界中でスマートフォンを眺めている人たちの大半に、そんなものはないし、なくて何が悪いのかというわけである。デジタル・ネイティブなどと大層な言葉を使うまでもなく、生まれたときから常時接続や安い携帯端末でウェブ・コンテンツやオンライン・サービスを利用できる人々、それこそアフリカや中央アジアにいる難民キャンプの人々に、バーナーズ=リーらが思い描いたような world wide web の理想を求めるのは無理がある。それは、空気があって当たり前だと思って生きている人たち全てに気体の分子運動論を学ぶべきだと説いて回るようなものだ。
では、もうこの趨勢が後戻りできないとして、僕らは何ができるのだろうか。ジャロン・ラニアーのような、或る意味では御目出度い人たちのように何らかの「デジタル・デトックス」を実行すればいいだろうか。僕はそんなのはただの趣味や余暇だとしか思えないが。そして上記の記事の著者は、後出の別の記事で、メッシュ・ネットワークを使って P2P を利用した(既存のネット接続に依存しない)ネットワークを普及させたらいいと言うが、それは同時に既存のコンテンツを無視するか、あるいは他人のインターネット接続にタダ乗りすることになりかねない。そして、P2P にはセキュリティの脅威を個々のユーザが防ぐしかなくなるという負荷がかかるし、P2P の仕組み自体についても個々のユーザがメンテナンスするしかないという致命的な欠点がある。僕は(安定して安全なネットワークを目指すなら)そういう負荷が個々のユーザにかかる通信ネットワークの運用は、世界規模での非効率なり非建設的な労力の浪費という点で、望ましい姿ではないと思う。
WWW が、しょせんは国家や通信企業の規制という枠内で有償で維持される商業サービスであることは、避けようがない。もともとの「フリー」とか「オープン」というスローガン自体が嘘だったのだ。大学にいる人々は、自分たちの研究内容や身分が自立的かつ自律的であるというバイアスに強くさらされるが、彼らが最初に WWW を運用していた CERN も各国からの拠出があって維持されている。ここからものを考えない限り、妥当で現実的なプランというものは出てこないだろう。