Scribble at 2021-09-01 12:49:10 Last modified: unmodified

他のテーマに気を取られているせいもあって、いささか作業が保留となっている「黄金比」に関する論説の改訂だが、全く何も考えていないというわけではなく、たまに思い当たるアイデアを見つけてはメモに残していたりする。昨日も、寝床でスマートフォンを置いて目を閉じた直後に、次のようなことを考えていた(そして、それを再びスマートフォンの Google Keep へ入力した)。

誰でも同意すると思うが、黄金比の比率になっている形状だけが「美しい」と認知され判断されるわけではない。美術やデザインの本には、それ以外の白銀比だとか幾つかの比率が紹介されている。そして、そもそも1:1の正方形や1:2の長方形が「醜悪だ」と言いうる強い根拠がない限り、これらもまた何かの形状の比率として採用されて悪いとは思えない。かつて述べたように、人類の作る物に採用するべきあらゆる形状の比率として、それがナタであろうと車のエンジンであろうと便器であろうと焼きそばソースの容器だろうと、黄金比に従うことが絶対に正しいというなら、およそ人の文明で作り出される道具や建築物や商品の一切合切は、部品から何から何まで黄金比で造られてもおかしくないし、そうするべきなのでもあろう。しかし、現実にはそんなことになっていないし、敢えて言えば数学の通俗本が「あちらにもこちらにも黄金比」などと言うほど、黄金比は人の作り出すものはもちろん、自然にも偏在して〈いない〉のである。

数学として言えば、「自己相似的」な比率なんて黄金比の他にも、それこそ幾らでもある。よって、自然が黄金比という特定の比率ではなく自己相似性によって制約されざるを得ないからこそ「自然」であるという意味では、黄金比に従う形状だけが偏在などするわけもないのだ。寧ろ、そのような特定の比率が画一的に自然に適用されるなどということの方が作為的であり、「不自然」だとすら言いうる。僕が、黄金比を見つけては喜んでいる昆虫採集好きな小学生並の科学者が書くものに辟易させられるのは、自然についてのこうした、「自然」科学者にあるまじき錯覚と言いうるような浅薄さが理由である。

何かの形状が美しく見えるという事実だけで言えば、1:1の正方形も美しく見えるだろう。かなり簡単に言えば、整数倍の比率は、比率が小さいうちはどれも美しく見えると言ってよいと思う。1:3も、特段の醜悪さは感じないし、1:4でも同様だ。しかし、この比率が大きくなってくると判断できなくなる。1:60 の比率の長方形、たとえばお箸1本くらいの形状について、それ単独で美しいかどうかを判断するに十分な理由を、僕らは持っているだろうか。こういう比率が微妙になってくると、どんどん判断し難くなる。同じく、黄金比とは言っても、近い比率をもつ形状の物体との正確な違いはヒトの肉眼だと識別に限度がある。形状 A と B とでは長辺に 0.000001 mm の違いがあると言われて、その違いを肉眼で見分けられる人間などいない。たぶんサイボーグ003(フランソワーズ)でも無理だ。

更に、何かの形状を美しいと感じることと、何かの形状が整っていると感じることは別なのだろうと思う。

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