Scribble at 2021-09-01 16:08:51 Last modified: 2021-09-02 08:54:34

『事実に基づく経営』の内容について、引き続き議論したい。本書では「半分だけ正しい」常識を幾つか紹介しながら、そういう常識を無条件もしくは安易に当てはめることが危険であると指摘する。そのような「半分だけ正しい」常識の一つとして、ワーク・ライフ・バランスというスローガンを取り上げて、その根っこにある、仕事とそれ以外の生活は〈別である〉という発想が正しいのかどうかを検討している。

これは興味深い考察だが、しかし「事実に基づく」考察というものは、これまで当サイトでも何度か述べているように、得てして安っぽい現場主義に陥る落とし穴を空けてしまう可能性がある。事実として多くの会社ではこうしているというだけの事で人が何かをするべき十分な理由になるというなら、つまるところ、バカの集団がやっていることに、我々は従わなくてはいけないという話にもなりうる。事実としてどうあれ、それが馬鹿げていると思うからこそ、経営の思想や理論が多くの人々によって考案され、提案される。バカが実行する事実の集積と、少なくとも理想的な状況を想定した理屈の集積のどちらに学ぶべきかは、僕にとっては愚問である。もちろん、「事実」は本当に学ぶべき成果や状況であるかもしれないが、そもそもそれが学ぶべき成果や状況であるかどうかを決める基準は、理想や理論の側にしかない。凡人が自らやっていることを自分たちの基準で評価するなんて、ウンコがゲロを汚いかどうか決めるようなものだ。

かようなリスクはあるものの、本書の議論を受けて具体的な批評をするなら、僕も仕事場と家庭とで言動の基準や方針や価値観が変わるような人間は信用しかねる。しかし、仕事場と家庭とで同じような言動を求めるという場合に、多くの人々は、どういうわけか常に職場での態度を改めることばかり想定して議論する傾向にある。いささか極端に言えば、これからは職場でも気楽な態度で(それこそ家庭で気楽にしているように)仕事をすればいいなどという想像のもとで職場と家庭での態度を語ろうとする傾向にある。しかし、僕は寧ろ逆の意味で仕事場と家庭での態度をなるべく一致させるべきだと思う。なぜなら、家庭生活にもマネジメントや予実管理といったビジネスと同じ考え方を取り入れてもよいからだ。要は家庭でも仕事場と同じくらい真面目に家事やホビーに打ち込み、丁寧に子育てやセックスを考えてもいいだろうという話である。

それから、『事実に基づく経営』を読んでいて驚かされるのは、上記のワーク・ライフ・バランスに関連して仕事に家族や友人関係を巻き込むことを推奨しているように見える議論だ。その典型としてアムウェイを紹介していたりするのだから、日本では特に奇妙な印象を読者に与えるだろう。もちろん、アムウェイが主張する連鎖販売取引(multi-level marketing)自体は法律上の概念であって良し悪しは関係ないのだが、適法であろうと家族や友人関係に頼って物を売るというのは、多くの場合に人間関係を壊す原因になるのも事実であり、実際にこれまで消費者団体へ数多くの苦情が寄せられている。アメリカでは巨大な圧力団体を牛耳っているからかメディアが話題にした事例を見たこともないが、逆にアムウェイで何かを購入したという話を見たり聞いたこともない。どう解釈するかはともかくとして、これが「事実」だ。本書の理屈で言えば、仕事とプライベートの「バランス」など存在せず、全てが仕事でもあり生活でもあるような、田舎の農家みたいな暮らしが理想らしい。著者によれば、会社を「家族」のように運営して、社員が家庭に持ち帰った仕事を一緒にタダ働きで支えるような家族の姿が一つの理想らしい。もちろんそれは〈一つの〉理想かもしれないが、多くの「事実」は、それを悪辣な経営方針による親族や友人関係を巻き込みつつ連帯責任で本人を会社や仕事へ縛るヤクザのような組織だと教えているのだ。

ということで、どうも読んでいて胡散臭い。自分たちで「事実に基づく経営」などと言っておいて、自分たちのイデオロギーや信仰や利害関係を「事実」であるかのように押し付けているだけではないのか。実際、本書では「事実」という言葉を連呼している割に、個々の論点を支える根拠の多くが、S&P500を調べたところでは云々などとビジネス書によくある雑な話をしていたり(一度でもいいから、S&P500の分析結果を全て並べて見せてみろよ)、あるいは一つや二つの企業を取り上げるケース・スタディが大半で、実際のところ他の(彼らが「事実」に基づいていないと評している)ビジネス書と比べて説得力は殆ど変わらないと言える。末尾に掲載されている注釈も、さほど学術研究の成果として厳密と言いうるレベルや分量の証拠立てとは思えない。本当に彼らは「事実」に基づいて議論しているのだろうか。

こうして見てくると、冒頭で従来のビジネス書を批評する著者らの議論は、クリティカル・シンキングの教科書によくある突っ込みのパターンではあるから、読んでいてそれなりに痛快さはある。互いに正反対の意味になるビジネス書のタイトルをペアにして一覧表に並べてみせたり、これはこれで面白い批評ではあるのだが、しかし実際のところ大半のクリティカル・シンキングと同じで欠点を指摘するだけのことでしかない。たとえば、他人を牽引するリーダーシップと他人をサポートするリーダーシップとで意味合いが逆のビジネス書があるからといって、それらはどちらも間違っているわけではなく、本書の表現を使えば「半分だけ正しい」のであろう。すると、どういう条件なら一方を採用し、またどういう条件なら他方を採用するのかという妥当な条件関係や関連性を積み上げることが「事実に基づく」アプローチというものであり、既存の相反する理屈や提案を両方とも否定して新しく「事実に基づく」理屈や提案を押し出せるとしても、そういうやりかたはそれ自体が半分しか正しくない可能性があろう。

著者らが参考にした、医療での EBM(evidence-based madicine)にも言えることだが、「エビデンス」というものは、実は誰でも簡単に集めたり観察したり推測できるようなものではない。何が証拠として扱えるのかという基準の厳格さがない限り、単に個人の経験を「事実」(もちろん、当人の経験という範囲では間違っていないからこそ反論が難しい)と称して振り回しているだけの、子供の理屈にすぎない。だが本書を読む限り、著者らが何をもって妥当な証拠すなわち「事実」と認めているかは、殆ど基準が分からない。学術研究者が翻訳しただけあって注釈も丁寧に訳されていて、〈翻訳書という商品〉としては敬服するが、以上の点は本書の致命的な欠陥だと思う。確かに、会社と家庭を区別するべきだという論調が「半分だけ正しい」だけだと訴えるために、会社と家庭を区別しない実例を挙げているのだとは思うが、やはり彼らも幾つかの事例を紹介するにとどまり、ほぼ統計を使った実証はない。そしてきわめつけとなるのが、結局のところ彼らも(敢えてパロディになっている可能性はあるが)、会社と家庭を区別しない事例を持ち出して、「会社をほとんど倒産の淵から救った」(p.108)などと因果関係かどうか立証不能なことを言う。これでは従来の、correlation vs. causation を区別できないビジネス書と同じだ。

あと、細かい点だが、見出しが目立ちにくいデザインになっていて、ページをパラパラとめくっていても区切りがどこなのか分かりづらい。また、タイトルがどういうわけか原著の英語をそのまま柱(ページの上部空白部分)に印刷していてペダンティックな印象を受ける。そして更に困るのが、これは原著の問題でもあろうと思うが、小見出しに書かれているスローガンのような表現が、著者の批判しようとしている間違った考えを表しているのか、それとも著者が提案しようとしている肯定的な考えを表しているのかが、実は読んでいてはっきりしない。そして、前段でも述べたように、それが「半分だけ正しい」からなのかどうかが明確ではないから、見出しを眺めてから本文を読み始めると著者が何を議論して何を提案しようとしたいのか見えてこないのだ。これは読んでいて困惑させられる。

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