Scribble at 2021-09-01 11:04:32 Last modified: 2021-09-09 12:19:37

大企業の経営者の自叙伝だろうと子供が読む伝記だろうと、この手の本に読む価値があるとすれば、それは恐らく発奮材料とするていどのことだろう。「よーし、僕もノベール賞を貰える発見をするぞ」とか、「わたしは、楽天に自分の会社を100億で買収してもらって、30代でリタイアしたら料理研究家として暮らすわ」とか。僕は子供の頃に、何人かの人物について短い伝記が収められた本を読んだことがある。確か、エジソン、ワシントン、野口英世、雪舟、それから千葉雅也だったか(これはもちろん冗談)、そういった「偉人」の生涯や小さな逸話を集めた本だ。よくある、桜の木を切ったのは誰だとか、子供の頃に火傷しただの、叱られて涙で鼠を描いたやら、あるいはビジュアル系バンドの「おまえ化粧下手だなぁ」とか言われてネタにされるドラム担当みたいなアイコンを Twitter に使う話などが雑多に集められている(これも冗談)。

もちろん、僕はそれを読んで、小平なんてクソ田舎の高速道路をネタに民主主義を語る、まさに暇と退屈ゆえの人生を決意したわけでもなければ、修士課程で大抜擢されてタイムトラベルの本を書く、永遠の「新進気鋭の分析哲学者」になろうと思ったわけでもないし、古典のまとめサイトを運営して政府の何とか委員として些末な双六の上がりを目指そうと思ったわけでもなく・・・ここでは『日本哲学の最前線』(講談社現代新書)に出てくる連中をからかっているのだが、それ以外は何の哲学の業績があってエントリーしてる人たちなのか、国内の事情としてすらよく分からんから無視するけど、そういった連中をロール・モデルにしたわけではない。

しかし、時代は変わった。いまや YouTube や TikTok でゲーム実況やら自分のチンコを見せて荒稼ぎするのがガキの「成功パターン」らしいので、もちろん哲学においてもキャバ嬢みたいな女子高生が表紙の『哲学入門』を出版することが目標になってもいいし、ハーヴァードやケンブリッジに留学して見聞きした経験をもとに「日本の哲学も西田や田辺の著作を使って自己主張するべきだ」とか詰まらないお説教を垂れる本を朝日出版社から出してもいいだろう。あるいはカントやウィトゲンシュタインが登場する BL 系のラノベの原作者となってもいい。そのあたりは、僕は何度でも侮蔑しているが、ただのアマチュア一人に止められるわけでもなし、「俺が侮蔑してる」という事実さえ残ればいいと思っている。好き勝手にすればいいのだ。しょせん、どこの教授だろうと無能にはそれくらいしかできまい。

些事はともかくとして、僕ら勤め人がジャック・ウェルチの自叙伝や盛田昭夫の伝記を読んだところで、同じように生きることは不可能だし、仮にできたとしても同じ成果は上げられない。もっとも、論理的に不可能だという理由で(いかなる個人も、「他人」と同一でないのはもちろん、同じ人間でもありえない)、〈同じように生きる〉と想像すること自体が不当であろうから、「仮に」などと言ってもぜんぜん正当な根拠はないのだから当然だ。それに、そもそも彼らと全く同じ条件で同じように生きる必要もなければ、そうする意味も必然性もない。古典研究や歴史の研究に没頭する一部の人々は、デカルトや織田信長と全く同じ考え方や生き方をなぞって追体験したいかのようにアプローチしているものだが、そういう偏執的な研究態度は、確かに精緻な業績を残すという皮肉な結果へ至る場合もあるが、端的に言って何かの精神疾患が偶然に無害な仕方で判断や推論へ作用しているだけだと思う。論理的に不可能なことを可能であるかのような矛盾した前提によって想像しようとしたり固執するのは、ただの混乱であり錯覚にすぎない。それを解決するのは歴史学でも哲学でもなく、カウンセリングである。

僕は、企業人である前に哲学者だと言うこともあるが、しかし哲学者である前に人である。これに対して、無能というものは、いとも容易く自意識にとらわれて、「わたしは人である前に哲学者である」などと嘘を口にしたり自らへ言い続けて、自己催眠や自己欺瞞へ陥る。いかなる科学の知見を持ち出すまでもなく、一人の大人として考えて、natural born philosopher などいるわけがないだろう。「子供は生まれながらの哲学者」などと、最近は通俗的なキャッチ・コピーを書店でも見かけるが、あれを商業的な言葉の彩だと受け流すのが正常な精神の大人というものである。それは、哲学うんぬんを語る以前の人としての見識であって、こんなものに拘泥したりネタだと気づかないのは(ふりをすることも含めて)、致命的な無能であるばかりか、社会的なスケールで言って有害だ。

なんにしても、かような自意識プレイを哲学的な態度だと錯覚するからこそ、自分自身の発した言葉に自らの思考や態度や生き方まで騙される無能のまま、かろうじて「学術研究」と呼ばれるだけのルーチン・ワークへ没入するか、あるいは『日本哲学の最前線』などと、無能集団が自分で自分の履く靴の紐を引っ張り上げるようなことしかできないわけである。

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