Scribble at 2025-01-05 12:06:33 Last modified: 2025-01-06 16:04:34

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In Defence of Alternative Processes

写真を感光材料にて現像し印画紙などへ引き伸ばすにあたり、広く使われている手法や材料とは違って色々な写し取り方が考えられる。もちろん、敢えて古い手法のシアノタイプを使うことだってあるし、現代では多くの素材や出力方法などを組み合わせていて、「オルタナティヴ・プリント」だとか「オルタナティヴ写真」などと言われるようだ。上に紹介しているエッセイは、そういう手法を取り入れている写真家が「オルタナティヴ・プリント」への批評に応えるための文章であり、ひとまずスタンダードな応答としてご紹介できると思う。もちろん、多くの一般人からすればモノクロ写真すら異様なものとして見做される傾向がある中で、こういう真のクリエーティブな手法をわずかながらでもサポートする記事を書いておきたい。なお、日本語でも広義では現像も含めて「プロセシング」と言っているので、ここでは「オルタナティヴ・プロセス」と表記する。

オルタナティヴ・プロセスへの批判は、大別すると、オルナタティヴ・プロセスはセンチメンタリズムであるという批判、オルタナティヴ・プロセスは権威主義だという批判、そしてオルタナティヴ・プロセスは商業主義であるという批判の三つになるらしい。

まず、オルタナティヴ・プロセスを導入することは、シアノタイプを使ったプリントで分かるように、100年以上も前の手法を使うだけの懐古主義だと見做され、したがって一種のセンチメンタリズムにすぎないと言われることがある。しかし、モノクロであれシアノタイプであれセピアであれ、色々な表現手法があること自体はクリエーティブとしての選択の問題であり、現代の手法が技術として優れていても成果としての表現について supremacy を保証するものではないことは、美術やアートに携わる人間の素養や常識だと言っていい。簡単に言えば、現在の世界中の美大生が100人集まっても100年前にピカソが描いた1枚を超える作品は作れないであろう。彼らはおそらく技術・技法だけならピカソに匹敵するかもしれないが、彼らの描く作品のほぼ全ては(大学院生であろうと)僕に言わせればゴミやガラクタである。

次に、オルタナティヴ・プロセスは難しい技法や高価な材料を必要とするエリート主義や権威主義だと批判されることもあるようだが、これは全く無知でしかない。現代のスタンダートなプリント手法が安価にできているのは、規模の経済という原則による効果があるからであって、採用する数が少ない手法で材料がかかるのは当然のことであり、コストがかかるからといって何も金持ちの道楽というわけではない。また、スタンダードなプリントの手法は大量に処理するための自動化が進んでいるので、いまやネガを持ち込めばフィルム撮影を一度もしたことがないアルバイトが機械に投入するだけでプリントできてしまう。これに比べたら自動化されていないオルタナティヴ・プロセスに技術が必要であることは当然であり、しかも技術がかかることを何か悪いことであるかのように、ましてやアートの分野で文句を言うというのは、僕には理解不能である。アートに左翼や反知性主義やプラグマティズムやパターナリズムを持ち込んで何が面白いのか。

そして最後に、オルタナティヴ・プロセスは希少なプリントの作品を市場へ送り出す商業主義だとの批判がある。つまり、ただ単に珍しいことをやって必要かどうか不明な付加価値をいたずらに高めているだけではないかというわけだ。しかし、その付加価値がコストとして必要であれば、それに納得した人はしかるべき価格で購入すればいいのであって、これもまたアートに左翼を持ち込む愚劣な批評にすぎない。

ありていに言えば、たとえばバンクシーの落書きに何億円も出して何がどうなるというわけでもない。彼がそういう作品にどのようなメッセージ性を込めていようと、しょせんアートで世界は救えないし救う必要もない。したがって、どういうことに価値があると決めるかは、そのときに生きている人々の判断や価値観や尺度に依存しているのであって、僕らはその価値観をなるべく不当で無意味でないように色々な作品や考え方を紹介するだけである。だが、僕はもともと「多様性」が無条件に不可侵の価値だとは思っていないので、結果として多くの人々から否定され、わずかな人たちしか支持しない価値観もあろうと思う。それを守るためにテロを引き起こしたりする必要や情熱があるかどうかはともかく、そのようにして消えていくものがあるのは仕方のないことだ。これを何でもかんでもアーカイブするという発想は、要するに人というより人類全体が、どこかで何かを決定的に間違えている可能性があり、過去の成果を可能な限り保存しておかなければ反省のきっかけを失うという強迫観念でしかないと思うのだ。

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