Scribble at 2026-10-16 09:34:31 Last modified: unmodified
おおよそ、9月は『白夜行』、そして10月は『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』という作品について、当サイトでの論説を書いてきたのは言うまでもないが、それに関連して色々と調べたり考えることがあって、僕は何か関心事や心配があると寝ているときでも考えたり想像することがあるのだけれど、夜中に起きて Google Keep にメモを残したりするようなことがあって、ぐっすり寝られない日もあった。
このように、mindbrowing だったり heart warming (breaking) な文芸作品や物語に触れると、頭の中で情景や対話がひとりでに反芻されて、眠れぬまま時間が過ぎてしまう。そしてこういうことは、文芸作品から何か強い衝撃を受けた人のリアクションとして異常でも何でもないのである。寝室で横たわり、目を閉じてもなお、作中の登場人物たちの視線や沈黙、交わされた言葉の余白が次から次へと立ち現れ、意識は急速に覚醒へと引き戻されていく。このような状態に陥ったときには、単に面白かったとかエモいというだけの感想を抱いているのではなく、認知や情動のもっと深い領域において、作品が描いているストーリーや世界と僕ら自身の内面とのあいだに激しい相互作用が起きているのだ。
強い感動を覚えた直後の脳内では、ドーパミンを介した報酬系が賦活されると同時に、自己言及的な省察や過去・未来の思考を担うデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる経路が過剰に活性化している。本来であれば、寝ようとしているときに自律神経系が副交感神経優位へと傾き、脳波が緩やかな徐波へと移行すべきところで、作品が投げかけた問いや連想の連鎖が交感神経を緊張させ、高度な認知的覚醒状態を持続させてしまう。さらに厄介なのは、「寝なきゃ」という心配が更なる負荷となり、覚醒を強めてしまう悪循環が生じることだ。
なぜこれほどまでに、作品について考えずにはいられなくなるのか。それは、少なくとも僕自身に強い影響を与えているという意味での印象深い作品というものが、単なる情報の消費で完結するものではなく、僕らの能動的な推論を誘発する余白のようなものを残すからなのだ。描かれなかった登場人物の過去や動機、言葉の裏に潜む本音、あるいは作品が提示する倫理的な違和感に対し、脳は整合的な解釈モデルを構築しようと執拗に計算を続ける。作品世界が僕らのもっている既存の枠組みを揺さぶることで認知的不協和が生じ、その誤差を埋めようとする知的衝動が働くため、意志の力だけで「考えるのをやめる」ことは極めて困難になる。これは、印象深い音楽を聴いたときに、いわゆる ear bug と呼ばれる現象が起きて、頭の中でいつまでもその曲がひとりでに繰り返されてしまうことに似ている。
こうした夜の過熱から距離を置くための最初の現実的な一歩は、対象を一度突き放し、「これは作者によって配置された記号とプロットからなる架空の創作物に過ぎない」というメタ認知を立ち上げることである。どのみち、『白夜行』や『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』は、そこで表現されている限りのことであるなら、どう考えても作り話でしかないのは事実だからだ。そこでは、僕らは虚構に没入するとき、実在の他者に向けるのと同じ社会脳の認知資源を総動員して心のなかでシミュレーションを行おうとする。その結果、実在しない人物に対してすら「もっと知りたい」とか「どこかにこういう境遇や生き方の人がいるんじゃないか」とか、それどころかそういう人物が何かの偶然で僕と知り合っていたのかもしれない・・・なんてことを過度に期待したりする。あるいは逆に、そういう人がいたとしても永遠に出会うことはできなかったのかもしれないという、喪失の不安を抱く疑似的な関係性に巻き込まれてしまう。だからこそ、作品の登場人物である佐々木や山田や雪穂や亮司らが生きているのは現実のこの世界ではなく、あくまでも紙面やスクリーンの上であるという存在論的な身元を確認し、情動の暴走にブレーキをかける必要がある。どこかに高卒で頑張ってる女の子がいて、僕は何とか言葉をかけたりして助けてあげないといけない・・・なんてことを思い込み始めたら、もうそれは作品に感銘を受けた読者という立場からは逸脱した、或る意味では異常な人間である。
さらに、思考の反芻を決定的に加速させている要因として、たとえば『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』では物語が未完結であるという事情もかかわりがある。心理学におけるツァイガルニク効果が示す通り、人間は完了した事象よりも、中断されたり途中で保留された課題の方を強く記憶し、執拗に反芻する性質を持つ。完結した作品であれば、終幕という境界線によって認知的閉包を迎え、感情を過去のものとして整理することができるが、連載中などで物語が途上にある場合、未回収の伏線や宙づりにされた関係性は現在進行形で処理すべき未完了タスクとして記憶領域に居座り続ける。結末という確定したアンカーが存在しないがゆえに、可能性の分岐は無限に広がり、際限のない未来予測を回し続けようとしてしまうのだ。
しかし、寝ているときですら作品について何かを考えようとしてしまう意欲が止まらない最大の理由は、そうした作中の謎や未完のストーリーそのもの以上に、作品が読者自身の「生き方」や「他者への向き合い方」を根底から揺さぶる参照枠として機能し始めることにある。作中で描かれる登場人物たちの不器用な沈黙、過剰に白黒をつけずに相手の領域を守ろうとする慎み、あるいは生活の中で交わされるわずかな言葉のやりとりが、自分自身の現実の人間関係や倫理的な姿勢を照らし出す鏡となるからだ。読書とは単に他人の人生を眺めることではなく、自己の考え方や振舞い方、つまりは生き方を再解釈するきっかけにもなる。そのため、思考のベクトルはいつの間にか「作中の出来事」だけではなく、「自分はこれまで連れ合いにどう接してきたのか」とか「これからどう生きていくべきなのか」という、容易に答えの出ない実存的な問いへと置き換わっていったりするのだ。未完の物語の余白と、自分自身の未完の人生の課題とが重なり合い、二重の未完了感となって意識を捕らえて離さなくなるのである。
とはいえ、このような深い情動や内省の奔流に見舞われたときに、その感情を無理に否定したり抑圧したりする必要はない。寧ろ、それほどまでに強い影響を受けたという事実そのものは、文芸や芸術に触れる人間にとって得がたい知的・感情的な経験だからだ。実際、これらの作品を読んだことに何の後悔もないし、死ぬまでのあいだにこういう作品に触れて何かを考えたり感じられたことは良かったと思う。ただし、暗闇の中で目を閉じたまま、解決のつかない問いと格闘し続けることは、精神と身体を消耗させる。なので、同じような経験に見舞われた場合の助言として、実際に僕がやっているように、頭の中だけで堂々巡りしている思考をノートや紙の上に書き出して作業記憶の負荷を軽減することが効果的だ。そして時間をかけて考えるだけの値打ちがあるテーマだけれど、すぐに結論を出すべきものでもないと自らに言い聞かせ、意識の明晰な日中のタスクとして設定することが望ましい。