2022年11月23日に初出の投稿

Last modified: 2022-11-23

既に海外の IT 関連の話題をフォローしている方はご承知かと思うが、Library Genesis という電子書籍の海賊版サイトからデータをミラーリングするとともに、独自でユーザから新しく電子書籍のファイルをアップロードしてもらってコンテンツを増やしていた Z-Library という海賊版サイトの運営者が FBI に捕まったという。その数日後には、さっそく数テラバイトものコンテンツをミラーリングすると称して、個人が別のサイトを立ち上げたりしているらしいし、もともとダーク・ウェブには或る意味で安定したアーカイブがあるとも言われている。

ちなみに、流行語にはなったようだが、ダーク・ウェブなんて僕らのような情報セキュリティの実務家でも簡単にアクセスできるものではない。しょーもない通俗本を読んで、VPN クライアントや Tor をダウンロードしたり、あるいはクラッカーまがいの奇妙な英語のスペルで作成された Mastodon のサーバにアクセスしたくらいで、ダーク・ウェブに入れると思ったら大間違いである。だいたいにおいて、日本のクズみたいな情報セキュリティの研究者とか企業の人間が入れる場所なんて、クラッカーに言わせれば sandbox にすぎない。実際、ダーク・ウェブどころか、いっときの大流行だった Anonymous のメンバーにコンタクトできた人間すら既に誰もいないではないか。

些事はともかくとして、海賊版のサイトは今後もなくならない。ミラーリングが簡単だし、そういうサイトをホストするインセンティブは、いわば貧しい学生や研究者の全員にあるからだ。ここでも何度か書いたことがあるけれど、科学哲学のジャーナルなんて中小企業のサラリーマンが小遣いで購読できるような金額ではなくなってしまった。そして、それはここ最近の話ではなく、既に僕が大学院にいた1980年代には、Philosophical StudiesSynthese の(丸善による)年間購読料金なんて10万円を越える金額だったのだ。確かに、大学の図書館で購読してもらえば学生や研究者は(大学の予算が潤沢なら)気兼ねなく色々なジャーナルの論文を利用できる。でも、哲学という分野は必ずしもジャーナル・アカデミズムに染まっているわけでもないし、他の理数系でもジャーナルだけでは不十分なのである。よって、更に色々なアンソロジーやカンファレンスの proceedings などを集めなくてはいけない。どこの大学であろうと、そんなお金がいくらでもある筈はないので、国内では論文のコピー代行というサービスが大学図書館同士の協定で実施されている。それから、元学生や大学院生は図書館を利用する特別な卒業生向けのカードを発行してもらえることがあるため、それを使って図書館で論文をコピーできる。別に特別な料金が発生するわけではなく、複写の実費だけだ。こういう複製物は、Springer や Elsevier とどういう契約になっているのか知らないが、そういう用途での複製もありうるという前提で、莫大な購読料金になっているのだろう。

正直なところ、出版社がないと哲学できないのかと言われたら、それは明らかに愚問だというのが哲学者としての建前であろう。本や論文を読むこと、加えて誰かと議論することが哲学することの必要条件であるなどと、古代ギリシアから、いまをときめく小平の英雄とか立命のブ男とか早稲田の「有力教授」に至る華々しい哲学者たちの、いったい誰が証明できたというのだろう。しかし、現実には本や他人との会話が生じなかったという経緯を想定して、そこで哲学できたかどうかを議論することは、端的に言えばナンセンスである。それこそ、分析哲学的な暇潰しの喩え話にすぎない。既にわれわれは書物や他人との議論なしで哲学できるかどうかとか、そういう条件で哲学すべきかどうかを議論するような歴史には生きていないし、そんな歴史を試しに(どこかの無人島で子供を産んで哲学者に育てて)であろうとラノベの転生モノの主人公として妄想するのであろうと、そういう暇潰しに時間を使うべきではない。

他人の成果があると期待することは愚かだと思うが、他人の成果を無視することで何かが成し遂げられるなどと「孤高の天才思想家」を気取るような自己欺瞞は、更に輪をかけて愚かというものであろう。よって、書物なり雑誌なりオンラインのコンテンツとして情報や議論の手段を共有している状況が、たとえ恵まれた国家の市民であるという大前提のもとであるにせよ、そこでやりとりされている書物や雑誌を活用しないで何をするというのか。僕は、知識や技術や学術については権威主義とトリクルダウンを支持しているので、先進的な研究者を国家や国民はサポートするのが望ましいと思う。彼らの情報交換や議論にとって、ネットワークなり出版という産業が有効であるなら、それを支えるために言論の自由や学問の自由を保障したり、出版という事業が崩壊しない手立てを講じるべきだ。でも、その手立てが Springer とか岩波書店という私企業でなくてはいけないという理由は、どこにもない。これもまた、哲学者としての建前である。

すると、更に現実や常識に譲歩して、法政大学出版局や Oxford University Press が存続しなくてはいけないような市場を維持するだけの商品を流通させて、実際に購入するという手立てが必要になろう。いくらなんでも、出版事業者に国が補助金を出す自由主義国なんてあるまい。それらの産業は、学者だけでなく国民も支えるべき責任を負っている筈だ。とはいえ、彼らの出版する本を何でも買えと言っているわけではなく、もちろん、この宇宙から即座に消えてなくなっても構わない書籍や雑誌も山のようにある(おまけに、幻冬舎のように出版社として消え去ってもいいゴミ会社もある)。それが、凡人の仕事というものだ。

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