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“We are living longer, but thinking shorter.” Mary Catherine Bateson said to the New York Times, August 25th, 2010.

メアリー・キャサリン・ベイトソン

『最前線のリーダーシップ』は新訳を読んでいる(新しい序文にあるとおり、原著は編集部から殆ど中身を変える必要がないと指示されたようなので、新版の訳というよりも翻訳だけが新しいようだ。なぜか訳者のあとがきや解説が全く無いため、旧版との関係はわからないけれど、本当のところそんな些事に興味はない)。その中にベイトソンの Composing a Further Life: The Age of Active Wisdom (2010) という本が紹介されていたため、ベイトソンについて調べていたら、なんと今年の1月に亡くなっていたことを知った。ちなみに、ここで紹介しているベイトソンは、マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンのあいだに生まれた娘の方だ。

なお、本人サイト(mcbateson.com)はアクセスできることもあるが、何度かアクセスしているとヘンなセキュリティソフトをインストールせよと警告するページに入れ替わることがあるので、閲覧するときは用心したほうがいいだろう。それに、どうでもいい話ではあるが、このサイトはたぶん本人が作って運営していたわけでもなかったと思えるので、彼女はコンテンツに責任を取れないからだ。正直、このサイトは彼女のような実績の学者には相応しくない、広告代理店的というか情報商材的なプロモーション臭が漂ってくる。確かに、学者の評価は (1) 学内の政治的立場、(2) 教えた学生からの半公的な評価、(3) 学術研究の公的な業績としての著作物、(4) コンサルティングや公的団体での活動という幾つかの基準で評価できるが、(3) 以外は (3) つまり学術研究者としての能力を示す公的な業績からのデリバティブ(派生的な価値)だと言っていい。これらに加えて、確かにウェブサイトの運営とか SNS での啓発なりアウトリーチも評価の基準となりうるが、まだ公平で正確な指標がなく、はっきり言って個人としてのスタンドプレイや、素人や芸人の「集客力」を利用したパフォーマンスに終止している印象が強い。本人が自分について述べている文章は、当人が亡くなった直後であればなおさら、しかるべき時間が経過してから改めて冷静に一次資料として扱うべきかどうかを判断したほうがいいだろう(僕は、明らかに本人が書いた文章やメモの類であろうと、迂闊になんでもかんでも一次資料として扱うのは軽率だと思う。とりわけ、後から他人に読まれることを知っていて日記を書いているような「著名人」の自覚がある人物なら、そういう手稿や日記こそがパフォーマンスや自意識プレイでありうるので、ベイトソンがそのような俗物かどうかは知らないが、そのまま内容を受け取るわけにはいかない)。

業績を見ていると興味深い著作は幾つかある。しかし、あからさまな結果論で申し訳ないが、出版社からオファーがもらえる文化人類学者なら、誰でもこのていどは面白いものを書くものだ。日本では「横断的」とか「学際的」などと、既存の(学校の、制度の)分野や区分、あるいは「理系・文系」といった文化的後進国に特有の偏見や自意識〈からしか〉物事を評価できない愚鈍な読者が大半を占めるため、自分たちはベイトソンの著作を称賛しているという体裁や自意識でものを書いているつもりでも、そのようなコメント自体が偏見を上書きしていることに気づかない。僕が哲学という attitude without position nor perspective に拘るのは、そういう愚かさや自意識を単純に一人の人間として唾棄すべきものと感じるからだ。そこには、実はなんら〈哲学的な〉正当化や理論的な根拠などない。ちなみに、僕は attitude without position nor perspective と言っているだけであって、attitude 以外に特定の思想や理論に立脚したりコミットすることは、自らに対しても責務だと思う。自ら何らかの学術研究を志向しているわけでもない一般人であればともかく、少なくとも「プロパー」でありながら、しかるべき見解をサポートしようとせずに、能ある鷹はなんとやらという達人として漫画や小説に設定された登場人物のごとく、特定の思想や意見や趨勢へのコミットメントを常に回避し続けることを〈哲学的な態度〉だと勘違いしている自意識野郎を、僕が昔から「無能」と呼んでいるのは、それが理由だ。

というわけで、面白そうな著作はありそうだが、その面白さは恐らく文化人類学のプロパーであれば誰でも身につけているような面白さ(たとえば分析の独特な観点だとか、議論する際の特殊な論点など)だと思う。よって、即座に読まなければと思うほどの強い関心を引き起こす業績を上げた人物とは思えなかった。

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