Scribble at 2022-03-31 17:04:01 Last modified: unmodified

引き続いてラテン語にかかわる話をする。ご承知の通りラテン語というのは既にラテン語を母語とする話者が存在していない言語であり、読み書きしている人はいるが親から子へと教えられるような生活手段としては全く使う人がいない。ラテン語を読み書きするのは、キリスト教の関係者か研究職に限られる。つまりは生きるための言語としては既に「死んだ」言語である。これはつまり、18世紀くらいまでの学術文書として発見されでもしない限り、ラテン語で書かれた文献というものは総量が限られているということを意味する。もちろん宗教あるいは学術の文献に限らず、行政文書や当時の学者のメモ書きなどとしてもラテン語で表記された書類は続々と見つかるであろう。でも総量として見積れば、いま我々が知りうるラテン語の文書が僅かな一部にすぎないということはありえない筈であり、これから数百年が経過してもラテン語の文献や書類が倍になることはない。そして、これはたぶん古典ギリシア語についても同じことが言えるはずだ。もし我々の手にしている文書や書類が想定できる総量の9割くらいに達しているなら、それらを日本の出版社が得意とする利益を度外視した翻訳出版で続々と訳出してゆき、やがて大半の文書を翻訳してしまうことは可能だろう(日本人ならやりかねない)。すると、そこでラテン語の原文をわざわざ紐解く意義たるや、いったいどのようなものであろうかと思ったりもする。

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