Scribble at 2021-11-13 12:31:03 Last modified: 2021-11-13 12:42:06

rational reconstruction vs. historical reconstruction という対比を使うときに、やはりこの差はアメリカと日本に見受けられる対比にも通じると思う。簡単に言うと、アメリカは歴史から切断された移民によって成り立ってきた経緯があるため、それを正当化する〈その場での価値〉を重んじるプラグマティズムが合理的な再構成としての妥当性を優先する。それに比べて、日本では事の結果について是非を言うだけではなく、その動機が純粋であったとか何とか別の話を持ち出して結果の評価を相対化しようとする。

もちろん、何度も言っているように両者はどちらも重要であって、無視することはできない。でも、だからといって双方を間違った仕方で許容し、物事の評価へ組み入れてしまうと、誰でも思いつくと思うがプラグマティズムは容易く大阪維新的なポピュリズムへと堕するし、歴史的な再構成へ固執する態度は簡単にピースミール・ワークでの自己満足へと堕する。つまりは、どちらも目の前の評価であるか目の前の資料や論点であるかに関わらず、近視眼的な部分最適化だけに没入する愚行となる。

これに対する、皮肉にも歯止めとなるのが、要するに「思想」というものだろうと僕は思っている。通常、合理的であれ歴史的であれ再構成によって先行学説を分析したり定式化したり評価するというアプローチが、思想と呼ばれる随意的というか素人くさい思いつきの発想に対する学術的な誠実さとしての歯止めだと言えそうだが、実はそういう牽制関係は逆になることもある。よって、思想と学術(トマス・ネイグルの翻訳書で永井均氏が言及している事例を使えば、思想と哲学の対比に該当する)の対比は、アマチュアと学者の対比ではないのだ。学術研究においても、その実務としては思想という段階ないしレベルでの牽制がはたらくことがある。よって、僕らのようなアマチュアにおいても、もちろん思想として議論を展開するうえで学術研究の実務に匹敵する基準とか方法を援用したり、その観点が牽制として働くこともある。したがって、どこかの大学や研究機関で教鞭を執っているとかいないとか、プロパーであるかないかということ自体によって、成果の内容に何か本質的な違いがある(べきだ)と考えるのは、ただの自意識でしかないのである。

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