Scribble at 2022-04-10 07:55:05 Last modified: 2022-04-10 07:57:15

いまの親たちって、「うちの子、負けず嫌いなんですぅ~」と、それが美徳であるかのように自慢しますよね。いつのまにか、負けず嫌いは良い性格とみなされるようになってしまいました。正しい努力をうながす指導を伴わなければ、負けず嫌いは勝利至上主義に走ってしまいます。

スポーツに幻想を抱くのをやめませんか

凡俗の自分勝手な言葉の濫用を学術研究者が引きとどめることなどできない。そういう、未熟な生物個体の集団が営む〈自然現象〉に不平不満を言うのは止めて、ではそういう世界で何ができるのか、何をするべきなのかを考えたほうがいい。彼らが自分たちの将来にとって致命的な過ちを犯していようといまいと、ヒトは双曲割引という認知的な指向から自由になることは難しいし、考え方によっては認知バイアスどころか「合理的」だとも言いうるからだ(その一つの理由は、terror management theory で説明できると思う)。逆に言えば、遠い将来のことを見通すという学術研究者に特有の思考が市井の凡人に比べて「理性的」であるとは限らないのだ。或る意味で、本当に来るかどうかもわからない「人類の未来」を前提にして現在の行動を制約したり推奨することは、そちらの方が別の認知的な欠陥である可能性もあろう(実際、未来がどうという理由で色々なことを規制したり他人に強要する人の中には、何か強い強迫観念に突き動かされているパラノイアの傾向が見受けられることがある)。もちろんだが、どちらにしても僕は「頭がおかしい」などと言いたいわけではない。

上記のような事例については、著者も慎重に留保しながら書いているように、「正しい努力」だとか、あるいは学術研究において推奨されるように、粘り強さとか執拗な関心が尊ばれることもある。そうでなくては、仮説にコミットして何か月や何年も同じ実験や観測を続けたり繰り返すことなどできまい。要は、何についての固執なのかが問われるのだから、何かを達成したり獲得したいという動機付けについて、それがスポーツでしか不可能なのかどうかを吟味すればいいだけのことである。すると、恐らくは著者が言うように、肉体的な鍛錬とか極限までの酷使などによる脳内物質の作用(「ハイになる」とか「ゾーンに入る」とか言われる、あれ)が他人との競争という人為的な環境でしか十分に生じないという生理的な理屈があれば、そこでスポーツの意義が立証される。そういう議論のない、昔ながらの素人心理学による精神論や、無教養な凡俗の教育与太話など、茶の間や職場や公園での処世術でもないかぎり、バカに同調する必要など断じてない。

結局は、こういう事例もまた "if-then" によって条件ごとに考えたり行動するという〈面倒臭いこと〉をしたくないとか、大半の事象が統計的だとわかっていながら短絡的な議論として理解したいという凡庸さに引きずられた事例の一つでしかない。

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