Scribble at 2019-01-17 17:59:37 Last modified: 2022-09-29 09:08:53

歩行しているときの話にはなるが、当サイトの「歩行論」からは逸れるように思うので、こちらで書いておく。

僕は昔から、路上で唾や痰を吐く者を軽蔑している。もちろん、歯槽膿漏で血が出たのを吐き捨てるとか、あるいは病気や体質など已むに已まれぬ事情というものはあろう。しかし、そういう特別な事情があれば普段とは違う行動をとるのが当たり前なのであって、自分が往来でそうすることが分かっていれば携帯用のティッシュペーパーを使うとか、人目を避けたらよいのであり、対向者が近くを歩いている場所で息を吸うように唾を吐き出すなどというのは、とどのつまりは「育ちが悪い」ということでしかない。

こういう手合いは、特に大阪市内ではうんざりするほどたくさんいて、中には煙草を吸っているのか、小学生と思えるような子供までが道端で「ごぁぉぉぉ、っぺ」などと痰を吐く始末だ。僕はそういう光景を見かけるたびに、もちろん注意するなどという無益なことはしないが、やはり自分がどういう境遇に置かれたり何歳になったとしても、こういう振る舞いだけはするまいと念じる者である。もちろんだが、家族にそういう者がいたら注意するし、現にそういう様子を見て僕自身のように「育ちが悪い」と思う人がいることを伝える。

もちろん、僕が企業の採用担当者であれば、そいつと別の人間が並んで面接の場に座り、全く能力が同じであるなら、そいつは不採用だ。これは、企業や社会を防衛するための差別であり、正当な判断だと思う。こういうことを「差別ではなく区別だから悪いことではない」などと屁理屈で言い訳しようとするのがいけないのである。社会や集団の防衛には、一定の善悪という基準や判断によってメンバーを選別したり、特定の基準に満たないか違反したメンバーにペナルティを与えるというルールが必要である。もちろん、良い差別と悪い差別があるなどという〈実在論〉はない。そんなことが、あらゆる集団で最初から決まっているなどということはない。それゆえ、場合によっては基準や判断そのものが集団の維持にとってリスクとなったり、不幸な結果を招きかねず、それゆえわれわれは自分たち自身が間違いうるという前提でルールや基準を決めたり選ばなくてはいけない。そして、変えるべきときは変えなければ、逆に集団が危険にさらされる。

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