Scribble at 2020-08-21 09:18:53 Last modified: 2020-08-22 20:27:11

或る大学のラクビー部で新型コロナウイルスの集団感染が判明したことにより、同じ大学というだけで教育実習の参加を断られたり、アルバイトとして出勤しないよう命じられたり、あるいは PCR 検査を受けるよう求められたりする事例が出てきているという。しばしば「なんとか警察」などと呼ばれることもあって心理学者やカウンセラーが出てきて適当なことを喋っているようだが、これは簡単に言えば差別である。

この大学がある地域は、それこそ古代から数多くの渡来人が先進的な文化を伝えており、各地域から集められてきた人々(事実上の奴隷)が使役されて、巨大な古墳や都が次々と造成された。そして、一部の人々が差別されたりする実態は古代から現代まで変わらず、やっと20世紀に水平社のような組織ができて徐々に実態が広く知られるようになったり、行政上の対応がとられるようになってきた。

簡単に言えば、われわれが観光や物見遊山や古墳ブームなどで集まってくるその地域こそ、現代の言葉で言えば延々と人間を差別してきた者の末裔たちが住むところだとも言えるのである。しかし、幸か不幸か「人間」という概念は近代の産物であるからして、そういう人々の先祖、つまりは古代の権力者や住民に同じ言葉を使っても説得力はない。すると、「そのときに何と説得すればよかったのか」という想定問答は可能かもしれないが、果たして古代の人々に近代の概念である人間とか、ましてや「人権」なるものを説く妥当な手立てがあろうか。ましてや、当時の被差別者に同じことができたのかというと、これはどう考えても困難だとしか思えない。それゆえ、彼らは暴力に抑圧されて厳しい生活を続けるか、もしくは反乱を企てては潰されてきたのかもしれない。少し前に Nat Turner について調べていたのだが、映画になっているほどの人物がいるアメリカですら、ナット・ターナーについて知っているアメリカ人がどれくらいいるのかと思う。

かようにして、歴史というものは常に過去のすべての時期について現在の可能な手段を使って、調べなおしたり、分析しなおすものである。なぜなら、為政者や後ろめたい凡人が自らの非を隠そうとするというあからさまな理由はもちろん、何もしなければ大量の情報は消えてしまうからだ。その中の何が重要なのかを、実際には大半の人が分かっていない(もちろん、僕らが分かるとも限らないわけだが)。しばしば「アーカイブの病」などとポモの連中が冷笑する偏執的な《原初の渇望》とも言うべき精神性がかかわっていることは認めるにしても、そういう偏執的な精神性が差別の原因にもなりうる一方で、自らの来歴を詳細に顧みて反省する原因にもなりうるわけであり、精神性そのものだけを取り出して是非を論じることには(精神医学的な意義はあっても)社会的な意義はないと思う。

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