2018年01月16日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-16

前から書いていることだが、人の生き方や考え方に影響を与える制約条件を、昨今では人為的に「フレームワーク」などと呼んで取り出して見せたりコントロールできるかのように取り繕っているが、こういう制約条件が何であるかは、それこそヒトとしての生理的な条件もありうるし(過去の著名な思想家の何人かは発達障害と判断し得ることが指摘されている)、生育した環境(それこそ戦時下にあったとか)も関係があるだろう。また、当然ながら交友関係や教育も関係があるし、読んだ本、聴いた講演会も関係がある。そして、それらの経験によって培われた当人の感受性や考え方や振舞い方を、やや雑な意味合いだが、僕は「思想」と呼んでいる。人の生き方の根っこのようなものと説明すればいいかもしれない。

したがって、永井均さんがトマス・ネイグルの本訳書のあとがきで書いたような、「哲学」と対比された意味での「思想」とは意味が違っている。どちらかと言えば「イデオロギー」に近いかもしれないが、別に経済や政治といった論争の余地が大きいものだけに限定してはいない。それに、人が暮らしている中で気にしていたり信じているようなことだけに限らず、気にしていないことや信じていないことという、当人が積極的に何かを抱いているわけではない欠損や無作為も含む。できるだけ広く意味合いを取りたかったからだ。

こういう言葉を導入する目的は、人のものの考え方を支配する仕組みの適用範囲を、特定の、いかにも話題になりやすい「思想」家といった人々へ限定したくないからだ。人のものの考え方を支配している制約条件は、上記で述べたとおり生理的な事実も含めた経験なので、もっと多くの人々にも当てはまる。「八百屋 A 氏の思想」という表現は、なにか堅苦しく大袈裟に思えるが、ここでの用法を前提にすれば何も不自然ではなかろう。逆に「ニーチェの思想」などといった表現で、あたかも過去の有名人だけが何か体系的で首尾一貫とした考え方の枠組みをもっていたかのような(あまり根拠のない)想定を維持しても、人文の自足的な研究の前提としてはともかく、社会科学的な規模に帰結するべき研究では現実的な前提とは言えない。もちろん、このような前提を置いたからといって、僕は市中の人々もニーチェと同じくらい筋道立ててものを考えていたなどと主張したいわけではない。それは端的に言って事実に反している。ニーチェにも八百屋にも「思想」があると言う場合、それは「どちらも凄いことを考えていた」という賞賛の意味合いを含めたいわけではないし、「どちらもしかじかに囚われていた」という非難の意味合いを含めたいわけでもない。そうではなく、「どちらも頭部を持っていた」と言うのと変らないような、当たり前のことを言いたいために「思想」という言葉を導入したい。

社会科学で議論されている「イデオロギー」という概念は、あまりにも経済や政治といった特定の脈絡に限定されていて、生き方や考え方に関わり、それらを或る意味では制御している脈絡や利害や事情はそれらに限られないという当たり前の事実が軽視されてしまっている。かといって、通俗的な物書きたちがあれこれと弄んでいる「フレームワーク」だの「クリティカル・シンキング」だの「問題解決法」だの「嫌われる勇気」だのという概念的なオモチャでは、実のところそれらを適用する条件がなんであるかという議論を無視しているので、ただの場当たり的なテクニックや属人的な人当たりという話に回収されてしまいかねない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook