2018年01月16日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-16

僕は、従来から人が続けてきたことを変えたり止めるには正当な理由が必要だと思っている。それが無い限りは、昔からやってきたことを続けることが社会を維持したり防衛するための知恵として尊重するべきだろうと言いたい。これが、ごく普通に「保守」と言っている考え方だと思う。

昨今、発言力を笠に着た一部の者が愛国者を名乗って言いたい放題を続けているが、保守的であることの目的を取り違えず、なにごとかを保守するということ自体を軽率に盲信しないことを是とする人間からすれば(保守思想は、必ずしも非合理的で反知性的というわけではない)、あんなものは愛国でも保守でもなく、個人的な好き嫌いの感情を思想であるかのように脚色しているだけのことだ。いやしくも或る思想に身を奉じる者であるならば、それが特定の人物に「体現」されているという擬制の是非を考えなくてはなならない。全くの観念だけに突き動かされてものを考えたり判断してもよいものかどうかはもちろん、それを誰か他人に「思考の源泉」として依存するという(残念ながら、多くの場合に表向きは崇拝するふりをして、実は丸投げするという)仕組みが正当であるかどうかも、何事かを保守すると弁えていればこそ問い続けるべきであろう。

保守に限った話ではないが、自ら何を維持して何を変えなくてはいけないかを自問できない思想などというものは、どのみち有限な能力しかないヒトの為せることである以上、遅かれ早かれ自縄自縛に陥って自らの観念や言葉に囚われてしまうこととなる。ゆえに、人の生き方や考え方について我々が最も尊重して保守するべきなのは、我々が何を保守するべきなのかを批判的に問い続けるという態度そのものなのである。これを忘れて、自分が気に入らない時節を叩いているだけで「愛国」だの「保守」だのと言い張れるなどという見識は、つまるところ自分自身が愛国者とはなんであるか、保守思想とはなんであるかを「体現」しているという傲慢さを表しているだけであって、皮肉にも愛国心や保守思想を何ほども表していない。

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