2018年01月13日に初出の投稿

Last modified: 2018-01-13

自分が単に外挿したり投射してるだけではないかという批判をしないで「意識ある何か」を描いている人というのは、まことに始末の悪い哲学をやるものである。もちろん、それを否定すると、自分のクオリアを否定されたかのような被害妄想に陥り易いからだ。たとえば、アニメのキャラがそれ自体で意志をもってるとか本気で考えたり発言してる人たちというのは、「サブカル」というラベルがついてるエリアで書いてればいいのだけど、昨今はそういう常識的な区別を安易なポモ理屈で無視する・・・著者じゃなくて出版社が多いというのが困るんだよね。

もちろん、僕はサブカルには生活を送る基準とは別の基準として、学問の成果のように有用な批判的観点も含まれていると思う。したがって公私の区別と同じで、どちらが偉いとか正当というものではないが、この区別自体を(言っちゃ悪いが漫画やアニメの評論家や物書き風情が簡単に)否定したり無視するのは、どう考えても社会をいたずらに混乱させるだけだと思う。確かにそういう混乱は思考の習慣を変える「力」として必要なのだろうけど、もちろん良い結果に導くとは限らない。そして、得てして物書きというのは、そういう混乱が好きだったり、そういう混乱を惹き起こしたのは自分だという自意識だけでものを書き、そして出版社もそういう大騒ぎを引き起こした「震源」としての影響力をもちたいという動機だけでものを出版するので、それが世の中にとってどういう影響を及ぼすのかなんて知ったことではないし、それを推測する(少なくとも学術的に妥当と思えるていどの)才能もなかったりする。

僕は、そういう連中の書くものは、読み物として気晴らしに眺めるのは好きだが、自分の生きる糧として信用に値するものは非常に少ない(「無い」とまで書くつもりはない)と思う。

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