Scribble at 2022-03-01 09:11:26 Last modified: 2022-03-01 12:19:27

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ビッグヒストリー われわれはどこから来て、どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史

古今東西を問わず、巨視的なスケールで眺めた「歴史」とか「世界」といったデカい概念を語る本は、多くの人々に好まれるようだ。最近では、どこかの地方大学の学長が手を変え品を変え続々と雑な通史を乱造しているし、古くはトインビー、少し昔ならダイアモンド、そして最近ならハラリが読書人やマスコミのお気に入りであろう(多くの場合に、なぜかハラリだけ「ユヴァル・ノア・ハラリ」とフルネームで表記される。思うに、ユダヤ人の苗字がどこで切れるのか知らないからだ。巨大なスケールの人類史を勉強するのも結構だが、ユダヤ人の名前の組み立て方くらい調べたらどうなのか)。

もちろん、グローバル・ヒストリーやビッグ・ヒストリーなど幾つかのアプローチを採用した、従来の時代区分や地域などに拘らないスケールの通史は、それぞれ興味深い。僕もかつて考古学を学んでいた時期に、40年前の小学生ですら縄文時代と弥生時代の厳格な「境目」などないと知っていたわけなので、実際のところ狩猟と農耕の違いとか定住したかどうかとか、そういうことだけで双方の(典型的な特徴についての)違いを説明できるのだろうかと思っていたし、同じことは弥生時代と古墳時代、それから古墳時代と飛鳥・奈良時代などにも言えた。したがって、少なくとも一貫した観点で時代を区分してはどうかというのが、子供でも考え付くような the next logical step であった。「縄文」は土器の模様、「弥生」は発掘された土地の名称、そして「古墳」は上流階級の墓の形態だ。縄文と弥生は土器についての特徴で分けていたため、名称の由来はともあれそれなりに基準は一貫しているが、それらと古墳とでは基準として一貫していない。かといって、弥生以降を土器の様式という基準で「土師時代」とか「須恵時代」などと名付けても、いわゆる歴史時代に入ると土器の製法とか模様などという些細なことで時代を区分する意味は完全に失われる。現在、日本で瀬戸物が制作されているからといって、現代を「瀬戸物時代」などと区分したり呼称する歴史学的な正当性は完全にゼロだ。そういうわけで、上記のように従来とは違った見方で大づかみでも「歴史」を捉えなおすアプローチには、読み物としてだけに留まらず、歴史(区分)についての考え方としても興味深いものがある。

しかし、こうした巨視的なスケールで物事を眺めるという態度は要注意だ。理由の第一は、単に面白い読み物だからというだけで、既存の区分だとか基準を軽視したり無視してよい理由にはならないからである(そういう人が往々にして陰謀論に陥ったりするわけである)。特に、従来の区分や基準とは〈異なる〉区分や基準を採用するというだけにとどまらず、昨今のようにやたらと巨視的なスケールばかりを強調するアプローチは、僕には或る意味で「危険物」のように思える。たとえば、「東洋 vs. 西洋」という単純な対比だとか、それ自体の範囲が変わる「国」を単位とすることへ疑問を投げかけることが趣旨である "global history" は、チャレンジングではあるが自身のアプローチを相対化できる余地がある。これに対して、上記の "big history" というアプローチはビル・ゲイツが後ろ盾になっている一部の歴史学者が提案したアイデアであり、歴史学においては殆ど松本清張や司馬遼太郎や塩野七生が書くような小説と同列の扱いでしかないという事実は、よくよく押さえておく方がいい。マーケティングやパブリシティが先導するアプローチは、それが学術研究者によるものであれ、文芸作家(もちろんどこぞの構成作家も含めて)の自称歴史書と同じく、10年もたてば素人の読書家からも古本屋に投げ捨てられるのが世の理である。

そして "big history" のアプローチは、エネルギーや技術に関するビル・ゲイツの意見を裏書きするようなものとして、それなりに批判の対象となっている点も知っておくべきだろう。その批判とは、僕が PHILSCI.INFO で "thanatophobia"(主観としての死の恐怖)を取り上げた論説にも書いたものだ。つまり、巨視的なスケールの観点を強調することによって、個人の一生や生命という概念を矮小化したり過小評価するような思考に誘導される危険性があるという話だ。宇宙の一生に比べたら人類の存続なんて大した意味はないとか、地質学的な尺度で見たら人の一生なんて束の間だとか、ヒトの主観や感情など些細なことだとか、そういう思考に僕ら自身が捕らわれると、大量殺人鬼やリバタリアンやネオコンのような著者らが叫ぶような刹那主義(それは他人だけを否定する自己欺瞞であり、「主義」というよりも何かの疾患の可能性があろう)、もしくは人間社会の価値観を軽視する超然主義の暴論へと陥る危険性がある。

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