Scribble at 2025-01-22 22:22:30 Last modified: 2025-01-23 21:48:09
夜の21時に電話がかかってきたようだ。出るわけないので、後から番号を検索してわかったことだが、「スリーイノベーション」とかいう会社らしく、太陽光発電のアンケートと称して怪しい質問をしてくるらしい。こんなの、闇バイトの襲撃先を調べる下調べだろ? こういうことを書くと、「それは偏見だ」と言われるのかもしれないが、社会を防衛したり生活を防衛するために最も有効なのは、if-then でいちいち詳しく場合分けせずに、一律に切り捨てることだ。これを相手にとって不当な差別にしない工夫は必要だが、切り捨てたり断定することそのものは自分の身を守る知恵というものである。夜の21時に、たかがアンケートという用件で電話をかけてくる不届き者を差別したり断罪することに、何の不道徳があるというのか。
昨今、このような考え方を「排除の思想」などと藁人形にしたてあげて攻撃する左翼の評論家や社会学者がたくさんいて、こういう排除の発想をとらないことが「懐の深さ」だの「包容力」だのと称賛しては、あたかも道徳的な supremacy であるかのように言い立てる。しかし、こうした懐の深い対応をした結果の多くは失敗に終わったり、相手に裏切られる結果となり、現に犯罪の場合だと再犯率は5割に達する。5割なら半分は成功なのだから望みはあると言うかもしれないが、その残りの5割によって再び誰かを殺されたり物品を盗まれた相手にとっては望みもクソもないだろう。そもそも、そんな「望み」についてお喋りするのは、常に当事者でも関係者でもない学者や、ドキュメンタリー番組とかノンフィクションを観たり読んでるだけの人々である。だが、社会政策や刑罰というものは、半分成功したらオッケーなどとガチャでアイテムを当てる話とは違うのだ。
もちろん、物事は単純ではないのだから、理由のわからない電話をかけてくる相手が犯罪者だとは限らないし、前科があるからといって条件さえ揃えば再び物品を盗んだり人を殺すとも限らない。それはわかるが、ではそういう可能性にわれわれが個人としてどのていど期待してよいかは誰にも分からないし決められない。すると、物事を安全寄りに考えるのは自然なことだし、寧ろそうするべきでもあろう。そもそも、リスクを引き受けるには、たとえば多少の金品を盗まれても余裕があるとか、相手よりも圧倒的に有利な立場がないといけないだろう。資産が数万円しかない日雇い労働者の人物が「来月の給料で返すから」と言われて、見知らぬ若者にお金を貸す必要など、どこにあるだろうか。あるいは、預金が100万円ていどしかない高齢者が、アフリカの子供にワクチンが必要だと募金を求める聞いたこともない団体に10万円を渡さなくてはいけない理由などないからだ。
このような議論をしているからと言って、僕は日本にいるイスラム教の信者が小型爆弾を持ち歩いているとは思わないし、北朝鮮にルーツがある在日朝鮮人が誰も彼もスパイ活動や誘拐の手引をしているとも思わない。それは不道徳だと思うからではなく、そんなことについて無条件の断定を下したところで何の有益な意味もないからだ。ましてや、「排除の思想であるかどうか」なんていう馬鹿げた基準に当てはまるかどうかで決めることではない。どこで正当と不当を区別する(べき)かが常に厳格に議論されなくてはいけないのであって、なんでもかんでも排除せずに許すなんて態度は、死んだ後で小学校の国語の教科書で紹介してもらいたいなら好きにやればいいが、実際には周囲の人間を巻き込んでいるだけの勝手な態度でしかないと思う。実際、そんな態度を取れたのは、歴史的に言っても極端な大金持ちや権力者であるか、逆に僧侶や極貧の人々など失うものが他にない人たちだけだったのだ。そして現代においては、判断の結果として何かが起きたとしても、自分には害が及ばないと思っている人間の無関心を表すものでしかないと思う。