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ジョサイア・コンドル『河鍋暁斎』(山口静一/訳、岩波文庫、2006)

Stable Diffusion で色々なスタイルの絵を作るようになって、多くの著名な画家や写真家の画風やらタッチやら構図やら色・光の使い方などを工夫するようになると、逆に美術史や日本画や写真について興味が出てくる。そして、それらを詳しく知るようになると、逆に生成 AI のディープ・ラーニングから得た画像には特定の偏りや傾向それから限界があることもわかってくる。

ということで、改めて日本の美術(もちろん海外の美術についても関心はあるが、少しずつ学ぶとすれば、まずは自分で読める資料も多い日本の美術からということになる。当然だが、日本画だけでなく陶芸や仏像彫刻や能面、いやもっと言えばコケシとか大凧のデザインなども視野に入っている)を調べると、興味深い人物がたくさんいて、これはこれでオンラインのクズみたいなブログ記事などでは絶対に読めない文章を書籍で読めることにも改めて感心する。

ただ、本書は河鍋暁斎について概略を得るには最適な一冊だと思うが、著者はそもそも建築家であって文筆家ではなく、色々な点で教えられることが多く資料としての価値は十分にあっても、暁斎の評伝としては二流だと言わざるをえない。特に、彼の仕事や生活を支えて次々と世を去った三人のパートナーについて一言も触れられていないのには、やや失望させられた。もちろん他人のプライバシーを興味本位で知りたいわけでもなければ、僕がフェミニズムを保守思想家の一人として支持しているからでもなく、人となりを描くのであれば、師匠や自然を敬愛する態度だけではなく、他にも書けることはあろうと思うからだ。それとも、暁斎という人物は連れ合いについて何の思い入れもないか口に出すこともない人物だったのか。

もちろん、このような cancel calture とおぼしき批評のスタンスは、このほど誕生したアメリカの新大統領の政権下では不届きな思想ということになるのであろう。だが、思想というものは時代によってスタンスの是非を変えたりするものでもないし、アメリカ大統領が誰であるかによって評価を手加減してよいものでもない。そういう、凡庸な基準でものごとを変えることがリアリズムであり処世術であると嘯くようなインチキ経営者やゴロツキ学者や物書きどもや政治家とは違って、われわれのような人類史スケールの保守を奉じる者は一向に動じない。哲学者としてのわれわれが恥じて避けるべきと信ずるのは、自己欺瞞、つまり自分自身を騙して嘘をつくことだけだからだ。

ちなみにだが、最近は日本の美術について幾つかの本を紐解いていて、その中には山口晃氏の『ヘンな日本美術史』(祥伝社、2012)もあるのだが、この本で山口氏は暁斎を「ひとりオールジャパン」と絶賛していながら、彼についての基本書と言えるコンドルの本書については読んでいる形跡がない。なぜなら、暁斎は外国人にも教えていて、その中にはコンドルのような建築家までいたとしか書いていないからだ。これは、ニュアンスとしてはコンドルを明治期に日本で活躍した建築家としては知っていても、本書を手掛けた弟子としては殆ど認識していない証拠である。つまり、どれほど詳しい資料ではあっても、本書は画家がなにか学ぶに値する内容をもっているとは限らないということでもあろう。もちろんだが、だからといって本書の全般的な価値を疑う必要はない。一読するだけの価値があることは確かである。

というか、山口氏の著作をはじめとして、本書の再刊などがあっても、いまだに暁斎は正当に評価されているとは言い難い。本書の口絵に採用されている「十七世紀美人図」と呼ばれる屏風の一部は、かつてコンドルが所蔵していたものを暁斎の末裔にあたる人物が見つけてイギリスの博物館に寄贈したにもかかわらずオークションに売り払われてしまい、いまではどことも知れぬ個人が私蔵しているらしい。もちろん美術品は嗜好品でもあるから個人が所持して何の問題もないが、しかし他方で大きな価値を認められた作品を公共財として収められなかったことは、或る種の「国辱」と言ってもいいわけである。都内のインチキ業者に金をばらまくだけの、しょーもない「プログラミング教育」などに国家予算を使う余裕があるなら、東大学卒者の掃き溜めと呼ばれている文科省官僚は、こういうことに予算の用途を向けるべきではないか。

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