Scribble at 2023-01-03 21:44:09 Last modified: 2023-01-06 00:20:11

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I heard that about 1 - 1.5 multiplied with page count would be a good number of sources cited.

How many references should be included in the bibliography of a Master thesis?

僕も回答の一つに賛成だ。

"There is no definite answer. It really depends on how much previous literature exists, how much of it you have reviewed and cited appropriately, and (loosely) what the word count of the document is. Page count can misleading, as some theses have many more figures and tables than others." (replied by Moriarty; なぜか Edge が "replied" を "replyed" の間違いだと警告してる。Edge って、中国人かインド人が開発してるのか? まぁでも、この文章でも be 動詞なしに misleading なんて現在分詞を使ってるしなぁ。)

引用の回数が多いとか少ないとか、確かに理数系で引用が多いのは違和感をもつけれど、やっていけないという決まりはない。必要なら引用すればいいだけであり、その正当化に納得がいけば理数系だろうと人文系だろうと defense できる。結局、卒論でも博論でも言えることだが、日記を書いてるわけじゃないんだから、こういう文書は defense することが目標なのであって、これができれば何でもいいのだ。

他にも、何冊読めばいいのかとか、論文を何本くらい使えばいいのかとか、そういうバカげた質問をする人もいるし、実際に神戸大でも後輩から似たようなことを聞いたことがある。でも、これも答えは同じようなものである。必要なら幾らでも読んで参考にすればいいし、references に登録して使うだけの値打ちがあるなら列挙すればよろしい。でも、それは論文を書くために実際に読んだ冊数とは違う。参考文献に並んだタイトルだけを眺めて10冊ほど読んだとか思ってる(まともな)教員はいないのであって、もっと必要に応じて他にも読んでる可能性があったり、逆に一覧へ列挙していても読んでない有名な古典が並んでいる namedropping な事例もあろう。実際、経済学者なんて大半が実は『資本論』を読んでないだろうと思うんだよね。哲学のプロパーでも、みんな『存在と時間』や『純粋理性批判』を読んだのかなと思うよ。

ともあれ、読む分量という話題について話を変えると、学部生が卒論を書く時には学術的な要求とか自分自身の基準がないから気にもしないだろうけど(学部だと、そういうレベルで教えてもいないだろうし)、修士くらいになったら少しはこういう話題が気にするものらしい。なお当然だが、博士論文でこんなことを気にするようなやつはいない。そんな無能が博士課程に進学できてる時点でおかしいだろう。

僕の例で言えば、卒論に相当する「ヒュームの関係概念」で単行本は30冊を列挙している。もちろん、それ以外にもヒュームと同世代のアマチュアが色々と批判して書いたらしいパンフレットみたいな本も復刻されていたので目を通していたし、論文も文献表に並べた数の倍は読んでいる。それから修士論文は、PHILSCI.INFO に掲載している「確率論的因果性の概念」は留年して書き直す前の下書きみたいなものなので、正式に関西大学へ受理された修士論文ではないが、参考文献に掲載してある冊数は大して変わらない。合計で7冊だ。つまり修士論文の方が卒業論文よりも掲載している本の数は少ない。論文の数は同じくらいだから、明らかに参考として列挙している著作物の数だけなら卒論の方が多いわけである。でも、だからといって学術的な評価や学位論文としての評価とは何の関係もない。もっとも、卒論としては異様に多いとは思うが。神戸大のドクターだったときに学部生や修士の後輩が卒論や修士論文の発表会をするというので参加したことがあるけれど、せいぜい修士でも読んでるのは論文と書籍を合わせて10点前後だった。なので、一般的な感覚として言えば卒論や修士論文では10冊くらいが「多い」のだろう。それが適切な数かどうかは知らないし、僕には興味がないわけだが。こういうことは、読んで利用する者の金銭的な余裕とか時間とか外国語の能力とかによっても制約されるわけだが、やはり最も強い制約は論じようとする話題や論点にとって必要かどうか、そしてそもそもリソースとして過去に議論された事例があるのかどうかによる。こういうことについても、哲学を適用するのが当たり前なのである。哲学をやるのに哲学的な思考を自らに応用しないなんて、どう考えてもおかしいだろう。

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