Scribble at 2023-01-03 13:31:01 Last modified: 2023-01-03 13:32:45
原田大六氏のような苛烈というか激烈というか、そういう心持で学問や学問の対象そのものと向き合う姿勢は、現今の大学の哲学研究科にあるのだろうか。現代の日本においては、中島義道氏が言うような止むに止まれぬ探求(それを「哲学」に分類するのは、本来は後のことだ)は難しいと思う。もちろん僕は、ただのライフスタイルでしかない清貧(あるいは敢えて「自意識過剰なロハス」と言い換えてもよかろう)だとか、或る種の欠陥をもつ子供がもっているとされる、食える国で生まれたくせに不幸面した自己暗示的ハングリー精神みたいな、知的な意味では絶望的に凡庸な態度など学生に期待してはいない。
さて、かような馬鹿騒ぎに終始してきた「邪馬台国論争」には、原田氏がみるところ、三つの点が欠けているという(邪馬台国論争を論じるのが主旨でないことくらい分かっているとは思うが、念のため)。第一に、集落やクニに該当する、当時の集団形成に関する理論がない。第二に、そうした中でなぜ邪馬台国と呼ばれる強力なクニができたのか、そしてそのようなクニができあがることによって、当時の日本にはどのような影響があったのかが論じられていない。そして第三に、考古学者や歴史学者に論証のスキルが欠けているということだ。
空想をやたらに加えて論証しようとしないのは、原田氏によればすべて小説である。邪馬台国狂騒劇は一種の「大衆文学」になってしまっているからこそ、安易に小説家や物書きが加わり、小説のように売れて小説のように読まれているがゆえに、勉強も研鑽も不要で「分かりやすく」一度で理解のできる幼児のベビーフードという安易な内容が、これまた歩く不勉強と言うべきマスコミに持て囃されるのである。ということで、僕は明解に理解できる叙述が大切だと思いながらも、アホが要求する「分かりやすさ」など学術文書に必要ないと明言しているのは、原田氏の本を中学時代に読んだからだ。