Scribble at 2022-08-07 11:24:04 Last modified: unmodified

或る公理系を仮定し、そこで成立する命題を「文」と言い、文のひとまとまりを「理論」と呼ぶ。そして、或る一つの理論(幾つかの文でつくられた一式)が、それの〈意味〉として想定される事柄の集合に対応関係を持っていて、初等的な論理学の教科書では「真」と「偽」の値だけが〈意味〉として対応する集合を使う。このとき、理論、〈意味〉の集合、それから対応規則などを一つの組として定義した数学的構造を、「モデル」と呼んでいる。実生活で「ヘリコプターの次世代モデル」などと言ったりするときは、次世代のヘリコプターを設計している人々が求める仕様なり要求という理論があって、それを現実の機体に何らかの対応関係を使って〈形にした〉という意味がある。よくモデルは「範型」という言葉の同義語として使われたりするのだが、モデルを作るのはその理論を実証するためであり、実証された理論から生産活動が始まる。当たり前のことだが、モデルとして作られたヘリコプターから鋳型をとって他のヘリコプターを生産するわけではない。このようなわけで、何か現実に使われている「モデル」と数学的構造の「モデル」とでは意味が違うかのような説明をする人がいるのだが、それはその人がモデルという〈概念〉を理解していない証拠である。

さてしかし、モデルの話をするときに(哲学の学生としてならなおさら)困惑させられるのが、「対応規則」であろう。「真」と「偽」からなる〈意味〉の集合をモデルとして仮定するということは、たとえば論理学では排中律という原理を認めることとなる。そこでは、どうやってかは知らないがわれわれが何事であれ真であるとか偽であると〈最初から知っている〉という想定がある。でも、それら二つの排他的な値(意味)しかもっていないモデルだけで有益なことができるわけではない。しょせん、どれほど形式的な議論であろうと、それは人が生きるためのものでしかありえないからだ。よって、二つの値だけで議論していようとも、そこでは真とか偽〈に該当する事柄〉との対応関係を想定している筈なのだ。逆に言えば、そういう「世界」との対応関係を無視した議論に価値はない。「A = A」がどれほど強固な原理であろうと、それが〈何のために使われるのか〉という価値を抜きにしては、それを虚空の宇宙で主張する知的存在そのものが存在しないところで意味などない。そして、この場合に使っている「意味」も、実は言葉の彩として使っているわけではなく、実際に有効な一つの応用なのである。

このようなわけで、モデルとか意味という概念に訴える議論は「意味論」と呼ばれることがある(数学では「モデル理論」とか「モデル論」などと言われる)のだが、これを説明するときに大半の書き手がいい加減に済ませてしまうのが、この対応規則である。対応規則とは言っても、結局は集合論でいう「関数」であり、定義域と値域とで定義された値どうしの組を集めたものだ。「人は生物である」という場合、「人」が特定のへんてこなサルに対応し、「生物である」は特別な性質をもつ全ての対象が過不足なしにその性質を持つということであり、これも結局は〈その性質をもつ何か〉がモデルとなっている状況のことだ。よって、モデル理論や意味論を言葉や概念で説明するときに難しいのは、モデルとして説明される何か〈の意味〉を別のモデルへの対応規則(関数)として想定できてしまうことにある。よって、モデルの記述が言語としての〈意味〉に依存している限り、対応規則がありますと簡単に言っているだけでは、そんな気軽に想定された「世界」(或る理論が二値のモデルにおいて「真」であるような対応規則をもつモデルのことを特別に「世界」と呼ぶ。初等的な論理学の教科書では全く説明していない話だが、可能世界意味論でいう「世界」というのは、このように最低でも二重になっているモデルを考えていなければ正確に議論できない)なんて、最初から自分たちが知っていることを議論しているだけじゃないかと反感を買うこともあるだろう。

実際、僕は初めて(数学的なモデル理論ではなく)哲学の本でモデルとか意味論の議論を知ったときには、そう感じた。これは特定の哲学を奉じる連中にとって都合がいいだけの、下らない作り話にすぎない。最初から真と偽が分かっている「世界」だけを相手にすればいいなら、そこには様相など不要であり、全く単純にブール代数として「計算」の対象とすればいいだけである。神のごとき計算だけでものごとが片付くなら、それは学術ではなく信仰であろう。三流アニメの見過ぎやゲームのやりすぎで頭がおかしくなった昨今の若造や、官公庁や上場企業を退官・退職した元役職者といった、安物の全能感を求めるような手合いにはお似合いの数学や哲学かもしれないが、われわれ哲学者にとって、そんな天下り式に用意された〈学術ガジェット〉など不要である、というわけだ。もちろん、丁寧に学び、精密に理解するという努力を続けることによって、はじめてそういう印象はなくなる。

でも、僕がみたところ多くのクズみたいな論理学や哲学の通俗本では、「文系でも数学みたいなことができる」とか、「高校生でも解くような一階の常微分方程式すら解けない君たちにも、論理を語るチャンスあり!」といった、しょーもない劣等感を拭いたいという動機や自意識をアピールするためにだけ、クズみたいなレベルの数理論理学やモデル理論が引き合いに出されるのが現状だ。でも、ここ数日にわたって書いてるように、僕がそういう下らない教科書や入門書を出している連中に言いたいのは、単に一言だけだ。その数学的構造を使って、いったいお前たちは論文を1本でも書いたことがあるのか? (調べたらわかるが、僕は少なくとも boolean closure の概念やモデルの概念を利用して学内の紀要に論文を書いたことはある)

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