2022年08月06日に初出の投稿

Last modified: 2022-08-07

この前から、情報科学の初等レベルの教科書で紹介される、主に離散数学とロジックの一部について、とにかく日本の教科書にはまともなものが少ないという話をしている。そして、これは僕らのような科学哲学や分析哲学を専門に勉強している者にとっても、「ロジック」と呼ばれる分野について同じことが言える。ちなみに、ここでは10年ほどのあいだに世界中の大学で「哲学」とか「論理学」と称して教えられている、クリティカル・シンキングやレトリックや認知心理学の通俗的で何の役にも立たない与太話は端的に無視したい。そんな犬のウンコ以下の蘊蓄など、知っていようがいまいが、人として生きるために何の役にも立たないからだ。

離散数学やロジックに該当する科目について、もちろん或る歴史的な事情があって(つまり哲学的に言って必然でもなんでもなかったことが、ほぼ思想史の定説となりつつある)科学哲学や分析哲学のプロパーは、命題論理学とか述語論理学とか集合論を学ぶわけだが、これまで発表されてきた夥しい量の論文や著書を読むためだけにそれらの学科を学ぶ必要があるだけにすぎず、哲学的な必然性などないとしても、とりあえず科学哲学や分析哲学を学ぼうとする学生は(とりわけ海外の大学では)最低でも記号論理学と集合論の理数系学部レベルの知識を叩き込まれる。僕も修士課程へ合格したときに恩師(竹尾治一郎先生)から Edward John Lemmon の『論理学初歩』を頂いたし、先輩たちに勉強会を開いてもらったりしていた。また、それと一緒に自主的な勉強としては、田中尚夫氏の『公理的集合論』(培風館、現代数学レクチャーズ)とか Chang & Keithler や Hodges の Model Theory とか、そうした著作を最低でも〈眺める〉ていどのことはやった。でないと、パトナムやファン・フラッセンの議論を、そもそも翻訳ですら理解できないからだ。

でも、僕は先生や先輩から優れたテキストを(それこそ微分積分学なども含めて)教えてもらった幸運があって、少なくとも大学院時代に「クズを掴まされた」という印象を受けたことは一度もないのだが、このところ書店で見かける論理学や離散数学のテキストを眺めると、別にそれらを既に学んだからという有利な立場や背景知識があるという事情を無視しても、ちょっと酷過ぎるという強い感想を抱く。

たとえば命題論理(あるいは命題計算とか、英語でも "propositional logic," "sentential calculus," "statement logic" など幾つかの呼び方はある)について簡単に言わせてもらうなら、これについて安っぽいバカみたいな教科書を書いている人間の大半は、おそらく自分自身の研究プロセスや成果の立証なり記述や説明に命題論理を使ってもいないし、物事を知ったり考えるために命題論理の成果を何も利用していないと思う。つまり、そういう連中が「論理学」などと銘打って毎年のように出版している、池袋の駅前にぶちまけられているゲロ同然の紙屑の類は、要するに自分が生きるために使ってもいない情報を、〈かつて学生時代に僕が大学でお勉強したことの絵日記〉みたいなものとして、サイエンス社や岩波書店やナカニシヤ出版などから他人様に対して有料でバラ撒いているだけなのだ。日本の論理学の本が殆ど仕事なり実務や生活の役にも立たず、学術研究の助けや道具にすらならず、それどころか数多くのプロパーや学生が論理学を必須の知識だと錯覚している分析哲学においてすら、現実には業績(ただの成果ならいくらでもある)として積み上がっていないのは、それが原因なのだろう。

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