Scribble at 2023-12-03 09:11:23 Last modified: 2023-12-03 09:30:04

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小学生の頃から学校の帰りに天王寺ステーションや阿倍野橋にあった駸々堂やユーゴー書店(どちらも閉店)という書店に立ち寄って、参考書や考古学や鉄道の本を眺めるという環境で育ったため、もちろん好んでビジネス書を手に取るようなことはなかったけれど、棚に並んでいる雑誌のタイトルなどは目に入るので、『プレジデント』という雑誌が40年以上も前から歴史上の人物や出来事について、一人の学者が唱えていて強い証拠もない仮説をセンセーショナルに膨らませて「報道」したり「解説」するというインチキをやる雑誌であることは、僕らのような小学生にとってすら常識の範囲に属することだった。大阪でも有数の進学校ともなれば、小学生ですらビジネス書や雑誌をバカにするていどの素養があるのだ(そもそも、同級生の何人かは在阪の大企業や上場企業の創業家や経営者の子息だったので、当たり前だが子供の頃から家族の会話として嫌でも経営やマネジメントや経済の話は耳に入るらしい)。

それは現在でも言えることであって、恐らくは低劣なマス・メディアの収益ないし事業構造から言って避けられないことなのかもしれない。たとえば、上記に紹介している二つの記事は、

・「後継ぎは優秀な人間がいい」とは限らない…徳川家康が「凡庸な三男・秀忠」を二代将軍に選んだ深い理由

・NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由

ということで、誰でも分かると思うがたがいに矛盾したことを言っているように見える。しかし、歴史学という学問を正確かつ丁寧に理論から実証まで真面目に(わずか5年ほどだが)勉強した僕らのような元考古学少年であればなおさらだが、これらの記事は両方とも学術的に評価すれば間違いである。なぜなら、歴史学や考古学という学問は、個々に紹介されている事実が正しいとしても、資料・史料の取り扱いと解釈、そしてそこから言えることをどのていど抑制して誤解の余地が生まれにくい表現で伝えるかという、まさに「文系」と揶揄されてはいるが実は理数系の学科でも本質的に重要な言語表現という技能と、それから研究者なかんずく人としての節度を要求されるからだ。だが、こういう三流の物書き連中(どちらの記事も著者は「歴史評論家」や「歴史作家」であり、歴史作家を名乗る河合氏はプロパーと言えなくもないが学術としての実績は殆ど通俗本だけだ)にはそういう学者としての節度というものがなく、特に歴史評論家の香原氏は学術研究者として最低限の訓練も受けていない学卒なので、本来なら地方に幾らでもいる「歴史好きのじいさん」と変わらない。こういう場所でものを書いているのは、単なる伝手や目立つパフォーマンスによるものであろう。もちろん、僕も歴史学や考古学の学位をもっているわけではないが、書き手についてはともかく、読み手に資格など必要ないし、読み手が小学生であろうと著作物に学術的な水準を要求することを非難する大人など、恥ずかしいにも程があろう。

というわけで、いまだにこういうマス・メディアはでたらめなことをやる。そして、これに輪をかけて知識や情報についての扱いを指南するような、これまたデタラメを書く連中がたくさん出てきている。その典型的な議論が、「いろいろな記事を読めば見識が広がる」とか「複数の媒体を読むとバランス感覚が身につく」という、実は何の根拠もない主張である。これを、僕は「エア中立」とか「達観ワナビー」とか揶揄して呼ぶこともあるが、端的には当サイトや PHILSCI.INFO でも指摘している錯覚、つまりは自己欺瞞の変種である。(ちなみに、なんでこういう議論や主張を、最近の若者は「言説」などと現代思想評論家みたいに格好をつけて呼ぶのか。そろそろ岸くんだとか、あるいは宮台真司の弟子で広告代理店が喜びそうなネタの本をよく書いてた人物など、日本の社会学者はアダルト女優や在日朝鮮人や沖縄の人々だけでなく、こういう若者のメンタリティにも目を向けてはどうか。)

実際には、こんなことは誰も認知科学や心理学として実証していないし、理屈としても論証などしていない。現実にも、たとえば自宅で多くの全国紙新聞を購読しているような人物が「バランス感覚のある」見識をもつ人物であるという保証など何もないわけである。寧ろ、社会心理学の研究成果が多くの著作物で示しているのは、多くの情報や意見に触れるとたいていの人は混乱してしまい、思考停止に陥って字面を眺めるだけの消費者なり情報処理マシンとなるか、あるいは読んだ順番に意見が揺さぶられて、或る日は左翼のようなことを言ったかと思えば翌日にはネトウヨになったりする。それは、イデオロギーによってものを理解したり考えたり議論したり主張しているのではなく、そのときの自分が気に入らないと感じたことを叩き伏せるための正当化や、自分が一度でも正しいと感じたことを他人から疑問視された場合の自己正当化として、見聞きした理屈を都合よく場当たり的に思い出しているにすぎないからだ。これは、ここ最近のブームであった行動経済学や、ダニエル・カーネマンの(実はかなり怪しい議論が多い)Thinking, Fast and Slow という著作でも知られている「速い思考」が、論理的で体系的な思考の連鎖やシステムというものではなく、感情的で場当たり的な反応や反射の連鎖やシステムで成立し動いているということにも関わりがある。

そもそも、多くの人々が全国紙を幾つも購読して読み比べるなんてことをしないのは、何もお金や時間がないからというだけではなく、そのインセンティブがないからでもある。ごく普通に暮らして働いているだけであれば、ものごとや人物について公正あるいは冷静な意見をもつことで自分が得になることは、とりわけ短期的な視野にあっては、実は殆どない。自分が得た情報から速い思考で組み立てたものの見方や感じ方が最優先で使われていて、それが正しいのかどうかを疑ったり自問することなど殆どの人はやらない。敢えて言えば、ノーマルな状況や状態の人というものは、誰でも「偏見」や「錯覚」によって生きているのだ。これは偏見や錯覚を避けたいと望んでいるのが当然であるような、僕ら哲学者であっても、強く慎重に対処しなければ避けられない、脳で起きる反応の一般的で自然なパターンだとすら言って良い。そして、こうなっている理由ないし原因は、もちろん人がヒトという動物だからだ。そして、現代においてもわれわれの周りには様々なリスクがあるため、このような脳の機能なり思考のパターンが変わるということはない。もちろん、ヒトの捕食者とか害獣は少なくなったが、災害もあれば、ルフィーもいる。子供にとってはクラス・メイトが何をきっかけに虐めの首謀者に変貌するか分かったものではないし、勤めている会社なんていつ倒産してもおかしくない。娘はどこで高額な iPhone を買うお金を手に入れたのか。ゴミの収集所に猫の死骸を置いたのはうちの40歳になる息子ではないのか。これらさまざまで多くの心配事や関心事について、「なるべく多くの情報」とか「なるべく公平なものの見方」などを得ることは、そもそもたいていの凡人にとっては何が十分なだけの情報であり、どこから情報を得ることで十分に公平となるのかという予備知識や見識が欠落しているのだから、そんなこと目指しようがない。また、動機としても、それでいったい何が報われるのかという成功事例もないわけである。周囲の大人も、そんなことをしない。繰り返すが、「公平なものの見方を得るために多くの全国紙を購読して読み比べている老紳士」なんてものは、はっきり言って誰かの漫画の登場人物にすぎない文学的な創作や妄想の類であろう。全国紙を購読するだけなら、多くの企業がやっているし、町内の付き合いで色々な新聞を購読している商売人もいるであろうが、彼らはそれを「公平なものの見方」を得るためにやっているわけではない。

実際には、記事 A を読んだ後に記事 B を読むことによって、多くの人は A と B とを読んだという事実を覚えるだけである。あるいは、どちらかに何か心地よい同情や同感の思いを抱くとしても、それは僕ら哲学者が研究プログラムのコミットメントと呼ぶような体系的で暫定的な態度や反応とは異なる。場合によっては、もともと自分がこうだと考えていたことを補強するような記事にだけ肯定的な反応を繰り返して、自分自身の考えや感情が間違っていないと強化していくだけになる。すると、別の意見や主張や議論である B に目を通しても、自分が間違いに固執している愚かな人間だとは認めたくないという感情が誰にでもあるため、B の欠陥を見つけようとしたり、A の方がマシだと思いたい理由を色々と探すことになる。これは、たとえば禁煙できない人にどれだけ疫学のデータを見せて肺癌などとの関連性を説明しても、色々な理由で喫煙を正当化しようとする人がいるのと同じことである。速い思考で強化されている、偏見ではあっても強固な意見を、合理的で強い証拠があっても変えさせるのが難しいのは、こうした理由による。

そして、もともとそのような強い感情とか偏見にもとづく自分なりの速い思考で組み立てられた意見をもっていない人があれやこれやの雑多な情報を目にしても、それで自然と「公平な意見」だとか「偏りのない考え方」に収斂するなどというのは、今般の大規模言語モデル(LLMs)として実用化されている人工知能の実用サービスを使った成果を見ても、およそありえないことだと言える。

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