Scribble at 2023-12-03 09:28:05 Last modified: 2023-12-03 09:45:42

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それは、歴史的な人物や出来事についての評価や解釈が、その視点や情報源によって異なるためです。特に、徳川秀忠のような歴史的な人物については、彼の人格や業績についての評価は、研究者や歴史家の間でも意見が分かれることがあります。

一つ目の記事では、NHK大河ドラマの描写を批判し、秀忠が凡庸な二代目ではないと主張しています。これは、秀忠が実際には優れたリーダーシップを発揮し、幕府の基盤を固めたという視点から来ている可能性があります。

一方、二つ目の記事では、秀忠が凡庸だったという視点を取りつつ、それが逆に家康にとって理想的な後継者であったという議論を展開しています。これは、家康が秀忠を選んだ理由が、彼が優秀すぎず、家康の意志を継ぐことができる人物だったからだという視点から来ている可能性があります。

これらの議論は一見矛盾しているように見えますが、それぞれが異なる視点から秀忠を評価しているため、両方とも一定の意味を持つことができます。歴史的な評価は必ずしも一方的ではなく、多角的な視点から理解することが重要です。それぞれの記事が提供する視点を理解することで、徳川秀忠という人物についてより深い理解を得ることができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます。それぞれの視点が提供する情報を組み合わせ [...]

OpenAI が提供する ChatGPT のオンライン・サービスでは起きない現象だが、Edge のサイド・バーに搭載された ChatGPT では、上記のように異常な回答が吐き出されることがある。ちなみに、質問したのは先の落書きに関連して、

「或る記事では、「NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由」という議論をしていて、別の記事では「「後継ぎは優秀な人間がいい」とは限らない…徳川家康が「凡庸な三男・秀忠」を二代将軍に選んだ深い理由」という議論をしています。これらは矛盾しているように見えますが、どうしてこんな矛盾した議論になるのでしょうか。」

というものだ。

ちなみに、ChatGPT が回答した「それぞれの視点が提供する情報を組み合わせることで、より全体的な像を描くことができます」というのも、実は僕が先の落書きで後半に指摘した根拠の乏しい想像というか希望的観測にすぎない議論の一つだ。さらに言えばこれは僕が PHILSCI.INFO において、或る思想家や哲学者の「全体像」を求める古典解釈の研究というものが、恐らく原理的にできもしないお化けを求めるパフォーマンスにすぎないと切り捨てているのも、似たような話であろう。

多くの情報を集約すれば何か良さげなものになるというのは、集合知といったデタラメに始まって、これまでにも数多くの根拠に乏しい解説や議論や理屈が現れたのだが、集合知のプラットフォームとして最大の規模を誇る X (Twitter) が、一時期は学術研究者と一般人が色々なテーマで直に議論するといった幸運な事例もあったが、結局は偽情報やテロリストの暗号文や陰謀論や子供同士の虐めを促す符牒や麻薬の密売人のメッセージが飛び交う場所と化しているのを見ても分かるように、あるいは CGM サイトとして膨大なデータを集めるウィキペディアの日本語版が何年経っても「アニキャラと AV 女優のデータベース」という世界中の嘲笑を免れられないように、データや情報なんて増えるだけでは公正・中立な内容になるわけでもなければ、体系立った内容に整備されるとも限らず、そして公共の役に立つものになるとも限らないのである(もちろん個々の目的で乱立する、おたくやマニアや各種の団体が運営しているウィキにはそれぞれの独特な動機とか目的とか内容があるので、これはこれで「有用」ではあろう)。

しかし、もちろんわれわれが速い思考に抑制されやすいからといって、それを自然であるばかりか当然だと言っていては、およそ何の議論も学問も進展しない。僕は先の落書きで速い思考による偏見がヒトの思考の基準であることは主張したが、それで良いとか、そうある他にないとまでは主張しない。そのままであれば、はっきり言って人類なんて何年後に滅亡するかはともかく、「スマートフォンやインターネットを発明できた、ちょっとお利口な犬畜生」にすぎまい。

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