Scribble at 2022-02-24 12:54:59 Last modified: 2022-02-24 16:41:39

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『要説日本文学史』(伊藤正雄、足立巻一/著、社会思想社、現代教養文庫934、1977)

近代文学を専門に勉強するなら、更に吉田精一氏の『明治大正文学史』を読むのがいいと言われているようだが、本書の冒頭にもあるとおり、高校生が教養なり常識的な範囲の知識として読むなら、本書で必要かつ十分ということのようだ。いずれにしても根拠はぜんぜん分からないし、どこかに書いてあったとしても是非を判断する理屈も事実も知らないから、そういう素養とか常識とかのハードルや守衛の話はどうでもよい。

足立巻一氏が関わった著作物の一冊という事情で手に取ってみたのだが、彼は現代文学の大半を担当して加筆するような体裁で執筆に加わったという。そして、凡例に次のようなことが書いてある。

「現代文学の章は、やや詳しきに過ぎた傾きもありますから、そこは適当に取捨してお読み願います。」

こんなことを書く概説は珍しい。そして、これだけだと僕には正確な意味が分からない。現代文学というスケールでの「詳しき」という意味なら、多くの題材や作家を取り上げすぎたということだし、個々の題材や作家についてなら、それらについて事細かく書きすぎたということだからだ。そして、目次や実際の内容をざっと眺めただけでは、どちらの意味なのかは判断しかねる。

それにしても、僕がいつも足立巻一という人物の著作物に圧倒されるのは、単純に情報量というだけではなく、漢籍にしても日本の文学作品についても、それらを読みこなして評価したり紹介するだけの基礎としてもっているべき素養の厚みだ。もちろん、これは彼の自伝的な作品を幾つか読んで、たとえば漢籍については彼が祖父から何年にも渡って教わったであろうと想像できるからだが、それだけではなく当人の熱意とか拘りにもよるのだろう。それだけの資質とか素養があったうえで、児童文学に携わったりしていた実績があるというのも感慨深いものを感じる。また、これは単に足立巻一という人物一人の話だけではなく、他にも経緯は違っても同じように素養を身に着けたり執拗に物事を調べては考えてきた人々が古来から数多くいるわけである。そういうスケール感をもって状況を想像しつつ、僕はたびたび凡庸なアマチュアとして彼らの生涯だとか業績に圧倒されている。

しかし、こと哲学について言えば、外国語なり物理学なり哲学なりの学業だとか研鑽が積み上がってきているにも関わらず、これだけの〈醜態〉を公に晒すしかないのはどうしてなのかという気がする。最近だと、またどこぞの「有名教授」が、たかだか十進法で丁度の年齢を迎えたとかいう話が関東近辺では喧しいようだ。そして、そういう機会をとらまえては、意識が実在しないとか、あるいはウィトゲンシュタインの下半身がどうしたとか、〈面白くてタメになる哲学〉の文章を二束三文の外国語秀才にすぎない若手研究者とやらが集まって書くのだろう。

それで一体なんになるのか。

さて、本書の最後に「日本文学の特質」という結びの一章が充てられている。これは伊藤正雄氏が書かれたものだ。冒頭、日本の文学は感傷的・情緒的で、理知的・思想的な力に欠けると大鉈で切り捨てられ、時代劇や演歌など他の文化や娯楽と同じく偉大なるワンパターンを十年一日のごとく繰り返す権威主義、刹那主義、そして通俗主義の典型であるかのように描かれていて、僕も伊藤氏に何ほどか同調するべき印象を色々な作品から受けることがあるため非常に痛快ではある。また、日本は作者個人のプライベートを切り売りする私小説が過大評価されているといった指摘もあって、僕も同感だ。個人や集団としての被害なり辛さに同情はするが、同和地区とか女性とか在日朝鮮人とか身体障碍者といった〈その手のネタ〉だけで作品になると思い込み、そしてそういう人々の生々しい文章について文学者が裁判官気取りで評するなどという無礼で僭越なふるまいは、そろそろやめたらどうなのかという気がする。やるとしても、せいぜい Twitter で未熟な若造や新聞記者を相手にスタンドプレイに興じるていどでよかろう。

伊藤氏の指摘は、哲学のような分野の著作物でも妥当するところがある。その一つは、矢鱈と思想家個人の「全体像」というお化けを哲学研究の最大目標であるかのように畏怖したり崇拝する態度だ。これこそ、フッセルとともに、いったい哲学の研究者はどこを向いているのかと聞きたくなるような恥ずべき姿勢であろう。もちろん古典に学ぶことは(人が有限であるからには)必要であり、そしてそういう意味では大切でもあるとすら言える。しかし、博士号まで取得しておきながら多くの者がプラトンだデカルトだカントだヘーゲルだニーチェだラッセルだ永井均だと、個人崇拝で何事かに〈近づける〉かのような錯覚を抱き続けるのは、はっきり言えば日本の高等教育や啓蒙の失敗とすら言いきれる事態だろう。それでも、これらの人々の多くは海外留学どころかアメリカの大学で学位すら授与されていたりするのだから、困ったものである。自分自身について言っていたのではないが、僕が留学なんかしなくても有能な者には成果が出せる(逆に、無能は留学しても無意味である)と言っていたのも、これが理由だ。

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