Scribble at 2026-04-26 16:08:34 Last modified: 2026-04-26 16:17:52

僕がリバタリアンを何度も批判している理由の一つは、僕が高校を出て東京で働いていた頃に社会学を勉強する傍らで、まだ広く知られていなかった「法と経済学」という分野の、日本で出版され始めたばかりの教科書(マーキュロ & ライアン、1986)を読んだという経緯にもある(ちなみに大阪へ戻って大学に入る前の話である。大学に入る前に学士と同じていどの素養がある人間がいてもおかしくはない。もちろん、僕は自分が早熟だとか天才だと言いたいわけではないが、リバタリアンなどという連中に比べれば桁違いに有能であることは確かだろう)。

法と経済学 (law and economics) は、ロナルド・コースが1960年代に提唱した古典的な業績が1970年代にアメリカで普及してから、はじめて日本でも経済学のプロパーに知られるようになり、大学に公共政策などの専攻が設定された今世紀になって法学部の授業として取り上げられるようになったという事情があり、1980年代には法学部でも殆ど教えられていなかった分野である。マーキュロとライアンのテキストは、そういう中で出版された早い時期の著作物だ。これを神保町の書店で見かけて目を通したという偶然の経緯から、僕は現代の国家で「自由経済」とか「自由市場」と呼んでいる仕組みが、なんだかんだ言っても制度、なかんずく管理や規制としての法制度に支えられているという、法と経済学が強調するポイントに教えられるところが大きかった。

これに対して、リバタリアンを自称する人々の殆どが、管理や規制のない仕組みを「自由経済」や「自由市場」の理想として掲げるというタワゴトを口にしており、法と経済学の知見を身に着けている人間から見れば、そんなものは経済制度の歴史あるいは経済法制に関する無知無教養、あるいは自分たちの脱法的なビジネスを正当化するための屁理屈としか思えない。コースが『企業・市場・法』という本の中で使っている喩えを使わせてもらうなら、リバタリアンの議論というものは「森のはずれで木の実とリンゴを交換する」ようなことであって、文明社会における市場制度の議論ではない、野蛮人や犬畜生のやりとりに過ぎないのである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る