Scribble at 2026-08-05 14:25:24 Last modified: 2026-08-06 06:09:19
ノートの取り方、つまり note taking の手法というやつで、多くの人々に酷い勘違いがあるように思う。これは学校教育がもたらす、いわば負の影響と言ってもいいようなことだろうから、実際に勉強や仕事や趣味に関連して大量のノートを取ってきた者として、幾つか指摘しておきたい。(なお、note taking の議論ばかりしている人には生産性がないという揶揄を見かけるが、僕は note taking の議論は殆どしないし、ご覧のとおり一般的な学歴や職位を超える実績は出している。なので、この手の揶揄は分からなくもないが、方法やアプローチ全般の議論を軽視したり無視する堕落の正当化に濫用してはいけない。)
まず、何かの本で読書したり勉強するときに、ノートを取るということは自然でもなければ当然でもないということを知っておくことが望ましい。
本を読んで何かを学ぶという場合に、僕らは必ずしもノートを取ったりしていない(そもそも勉強ではない読書、つまり小説や漫画を読むときはなおさらだろう)。どういう本を読むときであれ、読みながら何か新しいことを知ったり、何かに気づいたり、あるいは何かを考えさせられるということがあるだろう。そして、そういう経験が何かを学んだことになると考えて、「これを読んで勉強になった」などと感想を言ったりする。もちろん、これで特に問題はないわけで、ノートを取っていないからといって間違いだとか不十分だなどと言う人はいまい。なぜなら、そのような読書においては読んだ者がその後に何をするかが全てなのであって、綺麗に内容がまとめられたノートが手元に残ったり、読書の感想をブログ記事として公開しても、研究なり趣味なりビジネスなり事業なり仕事なり、あるいは自分の生活において成果が出ていなければ、その本で学んだ成果を活かしていることにはならないからだ。では、ノートを取ることによって成果が出せるのだろうか。あるいは、ノートを取ることによって、更に良い成果が出せるのだろうか。どちらの問いにも明解な答えなどないだろう。だが、少なくともノートを取らなければ成果が出せないとか、あるいはノートを取らなければ更によい成果が出せないなどという言う人には、たいてい根拠がないことは明白だろう。なぜなら、世の中にはノートを取らなくても仕事の成果を出したり、自分の生活に役立てている人は大勢いるからだ。
したがって、まず読書するときにノートを取らなくてはいけないといった思い込みや不安は捨てるべきである。ノートやカードを大量に取ったり作ってきた者が言うのは奇妙かもしれないが、そんなことは、読書の成果が出るかどうかとは関係がないのだ。みなさんが、ニクラス・ルーマンやジャック・デリダのような多作の学術研究者や思想家になるというなら実務として必要になるかもしれないが、もちろん彼らにしても多くの本を書くこと自体は目標ではなかった筈だ。彼らがどちらも「赤川次郎に負けた」とか「エルドシュの論文数に及ばなかった」などと後悔して死んでいったとは思えない。
次に、教科書や概説書などのノートを取る場合に、学校の教科書や参考書で勉強するときと同じように、最初から最後まで体系立てて漏れなく全ての項目についてノートを取るというアプローチは、標準的あるいは基本的なノートの取り方でもなければベストでもないという事実を知っておくことが重要だ。
最初の論点と同じく、ノートを取るというのは読書にとって必須でもなんでもない。よく、読んだことを覚えておくために必要だなどと言って、200ページの新書を一冊ぶん読むのにノートを何ページも取る人がいたりするけれど、こういうのはたいてい実績を生まない。メモ魔に学者や偉人なし、である。そういう、瑣事かどうかの判断がつかないほど見識が薄っぺらい人、あるいは事柄の重要性についてハードルが低すぎる人は、そもそも本を読む以前の問題として人生経験や義務教育レベルまでの勉強が足りていないと思う。当サイトで公開している「他ならぬ凡人である僕の読書方針について」という論説で既に議論している話を繰り返しておくと、一冊の本に要所や力点がいくつもあると想定する必要はなく、その本から一つだけ学び取るという姿勢で読むことが健全である。それが、駄本という意味で、結果として自分の選択眼が間違っていたことを反省する理由になりえるような内容なのか、それとも自分の仕事や趣味や生活にとって役立てられると思える内容なのかは問わない。少なくとも、自分が何らかの理由で選んで書店から買うなり図書館から借りてきたのでれば、その成果は一つくらいあってよいだろう。もちろん、それまで知らなかったことが色々と書いてある本もあろうが、そんなことをいちいちノートへ書き留めるのは愚行である。それこそ、アインシュタインが語ったとされる逸話のように、「調べたら分かるようなことを記録したり暗記する必要はない」のである。記憶に留めておくべきなのは、何をどう調べたり確認したり読めば、どういう情報が分かるかという関連性だけだ。そして、再び取り出したり確認したい情報が一冊にいくつもあれば、それは共通の脈絡や関連性をもつ情報だから、個々の関連性や脈絡を覚える必要なんてないのである。そして、よほどの認知能力の低下や未発達という病的な問題でもない限り、その手の脈絡や関連性というものは読書する経験の経過において記憶に留められるはずなのだ。更に、あなたにとって重要な脈絡や関連性がある話題であれば、同じような内容あるいは分野の本を続けて読んだり、あるいは参考文献などを見て探したり、読むつもりで買ったりするかもしれない。逆に言えば、読んだ内容について自分の関心とのかかわりを調べたり考えたりして記憶に定着しないなら、それはあなたにとってその程度の重要性しかない事柄なのである。
学校でつけるノートや、資格試験の勉強で作るノートのように、一から十まで事細かくノートを作る人はいる。そして、それは受験においてどこから出題されるか分からないので、偏った事項だけ覚えていてはいけないという(本人の関心や興味とは関係のない)実情があるはずだ。そういう理由でノートを体系的な内容で丁寧に取ることには、一定の意義があるのだろう。でも、それですら必須ではなく、人によっては全くノートを取らずに定期試験どころか大学受験すらクリアしてしまう人もいる。あるいは僕のように、後で体系的にまとまった社内研修用の教材を作るとか、あるいは当サイトで教科書みたいに整理した内容で生成 AI を解説する文章を書きたいとか、そういう特殊な理由があれば体系的に必要な項目を網羅したノートを取る人はいるだろう。でも、それもまた当人の興味とはあまり関係がない理由で、そうしているだけのことである。僕が個人として生成 AI の勉強をしているだけであれば、恐らくノートは取らない。本を読み進めていって、自分で理解したり覚えた内容を活用して、自分で生成 AI の運用に役立てるだけのことである。ノートを取る意味なんてないと思うことだろう。僕は記憶力が弱いという自覚があるけれど、まさか自分の関心がある趣味や研究の本に書いてある内容すら、ノートを取らなければ忘れるほどの人間ではない(嫌な言い方をするようだが、そこまで記憶力の酷い人間が、国公立大学の大学院博士課程に進学できるとは思わないからだ)。
こういうわけで、新書や文庫本などは1冊あたりでせいぜい1ページ分のノートを使うくらいだ。そして特に丁寧に勉強している分野については、確かに体系的だし詳細に書かれたノートを作っているが、それは結果としてそうなっているだけでしかない。つまり、ベースになる教科書でひととおり体系的な項目をノートに書いてから、同じ分野の別の教科書で知ったり考えた内容を同じノートへ追記していくから、結果として参考書や教科書で数十冊分の内容が凝縮されたノートになるのだ。こういうノートを誰もかれもがつくる必要はなく、作って運用すれば心強いのは確かだが、これは非常に特殊な動機や目的だけのアプローチである。